音楽なんかで世界は救えない




「……あーくそ痛ってぇ、口ン中切れてるわ」

 未だ熱を持つ頬を押さえ、律は苦々しく眉を寄せた。口を濯いだ後もなお、鉄の後味が口の中に広がって、最悪なハーモニーを奏でている。

 洗面所を出て、店内へ続くドアを開ける。

 すると、通せんぼするように横から不意に差し出されたのは、白いタオルだ。その手を辿って視線を上げれば、顔色一つ変えず澄ました表情の纏が立っている。数分前に平手打ちを食らわせた人間の表情とは思えぬほど、冷静そのものである。

 律は無言のままタオルを受け取り、軽く顔を拭く。

「今頃、透花がにちかを上手く説得してくれてるだろうし。ま、お前は謝罪の文言でも考えとけば?」
「……ん」

 それだけ返答して、纏の横を通り過ぎて、律はカウンター席に腰を下した。

 きい、とカウンター席が回って金属音が店内に鳴り響く。その音を最後に、店内は静寂に包まれた。

 その沈黙の最中、律は数秒間の熟考の末、苦渋に満ちた暗い顔つきを隠すように両手で押さえた。

「……冷静に考えたら、自分の都合で他人に八つ当たりしたうえに、年下中坊からガチ正論で説得されて、おまけにそのフォローを仲間に押し付けてる俺って……、控えめに言ってやばくない?」
「よくわかってんじゃん」

 ありのままの真実を肯定する裏表のない声音で纏は、即答した。

「即答やめろや。流石にメンタル死ぬぞ俺」
「敬意をこめて、クソ雑魚って呼んでいい?」
「悪意の間違いじゃん。……くそ! 今までの自分が情けなさ過ぎて、その不名誉なあだ名が否定できないわ。クソ雑魚とかまんま俺のことじゃん!」

 大きく息を吐いて、律は天井を仰ぎながら頭を掻きまわす。
 自己嫌悪に塗れ、普段の律からは想像できないほど取り乱す様子を目の当たりにし、纏は少し呆気に取られる。 
 いつも通りの暴言はどうやら律にはかなり堪えるらしい。

 罪悪感に似た気持ち悪さが心を掠め、纏はそれを振り切るように律の横の席へ乱暴に腰を下す。その音に驚いた律が振り返る。

「うおっ、いきなりなんだよ!?」
「……も、……」
「は?」
「……、悪か……」
「何?」

 纏にしては歯切れ悪くぼそぼそと口の中だけで喋るせいで、聞き取れない律は、片耳を纏側に寄せた。

「っ、だぁから!! 僕も悪かったっつってんの!!」
「うるさっ! 急に叫ぶなよ耳壊れるわ!」
「クソ雑魚のくせに何度も聴き返すからだろうが!」
「はあ~? 理不尽の民はお前は。……てか、今なんて?」

 耳を押さえながら律は、纏の方を振り返るが、纏はそのままさっとその視線から逃れる。何度か目線が合うように追いかけてみるが、ムキになったのか纏は頑なに顔を逸らし続ける。 

 しかし、その耳が熟れた林檎のように真っ赤に染まっていることに、纏は気づいているのだろうか。まさに頭隠して尻隠さず、である。

「ああもう!! しつこい!」

 いよいよ沸点超えた纏が、律の座っている椅子の柄の部分を蹴り上げる。対して威力もない強さが、律の椅子がくるりと回転して物理的に纏に背を向けさせられた。 

 これは少し揶揄い過ぎたな、と律は肩を落とす。
 しばらくして、いつもの強かで冷静な纏からは想像できないほど弱弱しく、小さな声で囁くように言った。

「今回の件、僕も、…………悪かった。ごめん」

 数秒ほど呆けた後、律はようやく理解が追いついてきて、ああ、と納得した。

「透花にそう言えって言われたんだろ」
「ぐ」

 忌々しさを滲ませて纏は言葉を詰まらせた。その反応だけで、律が想像した通りの正解であることは明白だった。

「…………確かに、そう言われたけど、ちゃんと本心で思ってる。だから、今言ったんだ。『ITSUKA』と『mel』のコラボの件、僕の独断で決めてこうなっちゃったし、少なくともお前には先に相談すべきだった、と、反省、してる。……ごめん」
「ぶっ」

 思わず律は吹き出した。堪えていた笑いを噴き出すと、もう止まらない。律は腹を抱えて爆笑する。

「しおらしい纏とかっ、似合わねー!」
「んな!?」
「はークソ笑えるわ。やべ、動画とか撮っとけばよかったぁ。透花に見せたらなんて言うかな~?」

 目尻から零れる涙を拭いながらそんなことをのたまう律の背中を、いよいよ堪忍袋の緒が切れた纏が思いっきり蹴り上げた。
 背中にスニーカーの足跡をべったりとつけて、律の身体は勢いよく前方に吹き飛ばされる。

「……お前な」
「知らね。僕じゃないもん」
「さっきまでのしおらしい纏くんはどこ行ったんだ?」
「そんな纏くんはいない」
「あーあ。儚い幻覚だったな。……ま、でも、そっちのがいいや。偉そうにしてるお前のが、らしくて。じゃないと張り合いねーし」

 何も言い返せないでいる纏のことなど気にする様子もなく、律は立ち上がって膝についた埃を払う。

「纏は、纏の仕事した。だから、それに関して俺から纏を責めるようなことは別にない。お前がそうした方がいいと思ったことなら、事前に報告されてても結局、了承しただろうし。今回の件、悪いのは全部俺だよ。ただ、俺が弱かったってだけ」
「それも含めて予測できなかった僕の采配ミスだ」
「お前なぁ、責任感強すぎ。もう少し気楽に考えろよ。ストレスで禿げるぞ」

 揶揄い交じりにそう言って、幾らか律の目線より下にある纏の頭に手を乗せた。
 しかし、その手は軽くいなされた。律の手が虚空を掻く。代わりに生意気な瞳がじろりと律を見上げた。その瞳があまりに揺るぎないから、律はたじろぐ。

「この世界に責任の生じない仕事なんか存在しねえよ。無責任が許されるのは、ガキのお遊びまでだ。……律にとっての『ITSUKA』はどっちなの?」

 年下だと侮るには、纏の言葉ひとつひとつが片手で受けるには重い。
 律は自分の甘さを思い知らされる。纏が律に求めるものは、慰めや庇いの言葉などではなく、対等に向き合うことだと。

「……ごめん。今のは、無責任な発言だった」
「別に。分かってくれれば、それでいい」
「……纏ってさ、ほんとに中学生? 俺が中坊のころなんて、将来のこととか、仕事のこととかなーんにも考えてなかったってのに」
「だろうね」
「お前ほんっとに可愛げないな」

 今更そんな可愛げ発揮されても困るけれど。
 纏はくすりと鈴の音を転がすように笑い、律に問いかける。

「律はさ、見たことある?」
「何を?」
「───誰しもが息を呑むほどに優れた才能が、クソみたいな理不尽を前にして無残に砕ける瞬間」

 きい、とカウンターチェアが空回りする。
 再び元の席に腰を下そうとしてた律は、その意味深な台詞に思わず纏の方を振り返った。しかし、まだ幼さを残した輪郭に髪が降りかかって、その表情を窺い知ることはできなかった。

「僕は、それを知ってる」

 纏はその瞬間を、見た。
 その理不尽を、知っている。