翌日の夕方、透花は目の覚めるようなピンクを見た。数メートル先でセーラー服姿のにちかが、透花に気付く様子もなく改札口方面へ向かっているのが見えた。
おそらくこれから、打ち合わせに行くのだろう。
「──あっ、芦屋さん!」
透花は大きく手を振りながら、にちかを呼び止める。
「あれ? 透花ちゃんじゃん」
「はあっ、はあ、これから打ち合わせですか?」
小走りでにちかの元まで辿り付き、透花はほんの少し乱れた息を整えながら質問する。
にちかは釈然としない曖昧な笑みを浮かべた。
「あー……、うんまあ、そう、だね」
にちかに初めて会った時の、堂々とした物言いはすっかり失われている。
楽曲製作が順調ではないのだろう。
纏伝いから聞いていた通りだ。透花もすぐ察し、敢えて進捗具合を聞くことはしなかった。
かと言って、このままにちかと別れたらそれはそれでいけないような気がして、透花はにちかの手を引く。
「あの!」
「な、なに?」
食い気味に身を乗り出した透花は、しまった、と思考が止まる。
次に続く言葉を用意していなかった。
そして咄嗟に、にちかの向こう側にあるビルの『公式戦ついに開幕!』と描かれた広告が目に留まり、勢い任せに声を上げる。
「野球しませんか!」
*
カーーーン!!
金属音とボールがかち合う瞬間の、弾ける音が場内に響き渡る。綺麗な放物線を描いて、ボールは紅葉色をした秋の空へと飛んでいく。
「ナイスバッティーング!」
透花が掛け声とともに大きく拍手すると、額に手を翳してボールの行方を追っていたにちかが満面の笑みで振り返る。
「見たいま! めっちゃ飛んだわ。んー、爽快! よっしゃ、もう一発!」
数十分前では比べ物にならないほど、軸のしっかりしたフォームでバットを構えたにちかが、ピッチングマシンから発射されたボールの中心を捉えて打ち返す。
緩やかな曲線を描きながら、ボールは飛んでいった。迷いなく、空高く。
*
「はい、これ。あたしからのお礼」
「えっ、あ、ありがとうございます」
バッティングセンターの休憩室に設置されたベンチに腰を下し、資料用で撮影したにちかのバッティング風景をスマホで見ていた透花に、缶ジュースが差し出される。
それを受け取りながら目線を上げると、首にタオルを掛けたにちかが晴れやかに笑った。
そして、透花の隣に腰を下し、手にした缶ジュースのプルタブを開けた。
プシュッと、爽やかな炭酸の音が弾ける。それを一気に飲み干していく。透花が目を張るほどのいい飲みっぷりである。
「ぷはー! ひっさびさにこんな動いたわ! 明日、筋肉痛確定だ」
すべて飲み切ったにちかが、ゴミ籠に向かって空になった缶ジュース投げる。カン、と景気のいい音を立てながら缶ジュースは吸い込まれていった。
「……あのさ、透花ちゃん」
「はい?」
「ありがとね、誘ってくれて」
「わたしの方こそ、付き合ってくれてありがとうございます。おかげでいい資料が手に入りました!」
「えっ、本当に必要だったん? てっきり、あたしを励ますための口実だと思ってた」
「ぶっ」
ちびちび飲んでいたオレンジジュースを透花は盛大に吹き出した。透花のさりげない気遣いはどうやら、にちかに筒抜けだったらしい。
MVで使う資料用にバッティングフォームを動画で撮りたい、だなんて中々に無理のあるこじつけだとは透花も薄々気が付いてはいたが。
透花は、妙に恥ずかしくなって明後日の方向へ視線を巡らせる。
「今はあれですが……いやたぶん、そのうち、必要になる日がく、来る予定なので……」
ぽん、と透花の肩に手が置かれる。
透花が表を上げると、にちかは真剣みを帯びた面構えで言った。
「何この可愛い生き物。抱き締めて持って帰ってもいい?」
「なっ、」
「あは、冗談だよ。もーそういうとこ、ほんと可愛くてすき」
「……そういう芦屋さんは、ド直球が過ぎませんか?」
透花は、揶揄われたことへのささやかな意趣返しをしてみる。しかし、にちかは意にも介さず、透花が目を細めたくなるほど眩しい笑みを浮かべた。
「まあね。あたし、melでいるときは自分に嘘はつかないって、決めてるから」
そう語るにちかの瞳の奥には、あの時と同じ青星がひと際光っている。
「ね、透花ちゃん」
「なんですか?」
「melって名前さ、聞き覚えない?」
もしかしたら、とは思っていた。証拠のない推測は、にちかの問いによって確信へと変わる。
「メメ先生の漫画のキャラから付けたの。天真爛漫で、まっすぐで、ちょっと頑固なとこはあるけど……でも、自分の信念を持った、あたしの一番大好きなキャラ! メルみたいに成りたくて、あたしはmelって名前を付けたんだ」
「……もしかして、その髪色も?」
「そうなの! 嬉しい。透花ちゃんが初めて気づいてくれたよ」
透花の問いににちかは両手をついて、眼前に迫る。宝物を見つけた子供みたいだ、と透花は自然と口元が緩んだ。
二目メメの漫画に登場するキャラのひとり。
主人公とともに旅をする、メルの特徴はにちかと同じピンク色の髪だった。一点の曇りもない朗らかな笑みを浮かべ、にちかは自分の髪を人房手に取る。
「髪色ぐらいでって、思われるかもだけど……あたしはこのピンクでいるときは、なんか勇気が出るの。よし、頑張ろうって思える。無敵感がでるっていうか。……ま、最近はちょっと落ち込んでばっかだったけどねー。なんっか知らないけど、雨宮は妙にあたしに当たり強いしさぁ」
透花には、思い当たる節がひとつだけあった。あの夏夜の光景が頭の隅に浮かぶ。
咄嗟に律を庇うような言葉が口から出かけたが、結局、透花は口を噤んだ。
なぜなら、
「──けどさ、そんなん知ったこっちゃないって、今気づいたわ!」
にちかはまだ諦めていないみたいだったからだ。
「あたしとしたことが、自分を見失ってたよ。なーんかさ、上手くやろうとか、仲良くやろうとか、妙に気張ってたけど。そんな器用な真似、あたしには出来っこないんだった。だって不器用だもん!」
にちかは立ち上がった。
つられて透花の視線が上がる。
振り返ったにちかのピンク色の髪が、ふわりと舞い上がって靡く。
「ありがとね、透花ちゃん。透花ちゃんのおかげで思い出したよ」
「わたしは、何も」
「ううん。透花ちゃんが声かけてくれなかったら、ずっとうじうじ悩んでたもん」
「芦屋さんの力になれたなら、その、良かったです」
「にちか」
「え?」
楽譜に描かれた音符を指で優しくなぞるように、軽やかな声音でにちかはもう一度繰り返した。
「にちかって呼んでよ。あたしだけが名前呼びじゃ、不公平じゃん」
「……うん。にちかちゃん」
透花が初めて名前を呼ぶと、にちかは照れくさそうに顔を赤らめながら頷く。
芦屋にちかという少女は、少し強引だけど、どうしようもなくまっすぐで、眩しいくらいに素直で、とても素敵な女の子だった。
その、はず、だった。
明くる日、透花の元に一本の電話が入るまでは。
*
朝の予報が大きく外れ、今にも雨が降り出しそうな不安定な空の下、透花は足早にアリスの家に向かっている時だった。
スマホの画面に表示された名前は、『纏』。
きっと、いつもの進捗確認だろうと、通話を繋ぎ、透花は耳にスマホを押し当てる。
「もしも、」
『透花、緊急事態発生した!』
電話越しからでも分かるほど、纏の声音は焦りと不安を滲ませていた。
「……どうしたの?」
『今さっき、にちかから連絡があった』
心臓の脈を打つ音だけがやけに耳で反響している。透花は手に持ったスマホを気づかぬうち、強く握りしめていた。
『──やっぱり、コラボはなかったことにしてくれって』
言葉を失う透花を嘲笑うように降り出した雨の冷たさは、体温以外の何かも一緒に奪っていくようだった。



