「玉手箱でも開けたんか?」

 店内でモップ掛けする律を見るなり、叔父からの第一声がそれだった。

 あの日から一週間がたった。
 この一週間が律の人生の中で一番PCに齧り付いた期間といえる。それは病的ともいえるほどに。
 その証拠に律の顔は寝不足による隈と疲労がたまり、別人のようにげっそりとしている。

 PCの前にいた時間以外の記憶がほぼない。
 今日学校からバイト先までどうやって来たのかも曖昧なくらいだ。見かねた叔父が律からモップを奪い取った。 

「お前もう家帰って寝ろ」
「は? やだよ」

 律は奪われたモップを奪い返す。

「律くーん? おじさんは可愛い可愛い甥っ子を思って言ってるんですけど?」
「大丈夫だよ、俺若いから。おじさんと違って」
「年齢マウントはやめろ」
「だって」
「だってもくそもありません」
「……あとちょっとなんだ」

 あともう少しで完成する。
 今を逃したらもう二度とこの曲は完成しないような気がして、律は取り憑かれたように曲作りに熱中していた。

 律の頼りなく弱弱しい声音に叔父は小さくため息をつく。昔から律に頼まれたら断れないのは自分の悪いところだ。
 これでよく姉貴に叱られていたなと叔父は遠い記憶に浸った。

 ここに彼女がいればすぐさま怒号とげん骨が降ってくるだろう。自分のことは棚に上げて。こういう一直線な無謀さはまさしく姉貴譲りだった。叔父は両手を挙げる。

「あーはいはい、分かった。俺の負けだ」

 律の顔つきが一瞬にして変わる。相変わらず顔に表情の出やすいやつだ、と叔父は内心思った。

「ただ条件付きな。とりあえず飯買ってきてやるから、その間スタッフルームのソファで仮眠取れ」
「……分かった」

 律にしては珍しく聞き分けよく、モップとともにスタッフルームへ姿を消していった。そのしおらしい背中を見送って叔父は薄く笑う。 

「まったく手のかかる甥っ子だな」

 尻ポケットに財布をしまい込んで、甥っ子の好きな鮭のおにぎりでも買ってきてやろうと店内を後にした。



 人間というものは睡眠の臨界点に達するともはや眠くならないらしい。
 身体は睡眠と休息を欲しているのに、ソファの上で何度目かの寝返りを打っても、やってくる気配のない眠気を待つのを律は諦めた。

 気を紛らわせるためにスマホを取り出して、SNSを開く。『透』のアカウントを見つけ、タップする。

 我ながら気持ち悪いなと自覚しつつも、そのアカウントを見ることが律のお決まりだった。
 
 自分の曲のことをつぶやいてくれているんじゃないかと期待していたのかもしれない。
 恥を忍んであまりあるほどの図太さが備わっていたなら、すぐにでも『透』に聞いてみたかった。 

 あの絵は俺の曲ですか? と。

 DMで送ってみようかと文字を打ち込んで、やはり送信ボタンを押すことを躊躇する。
 消してはまた書いて消してを繰り返す。

「あーだめだ……」 

 今日も送る勇気は律になかった。 

 気を紛らわせるために無理やり目を瞑る。
 
 瞼の裏側の星の数でも数えているうちに律の意識は落ちていく。ほんの少しスマホ画面に親指が触れたタップ音にすら気が付かずに。

「……い、おー……おーい、律。律起きろ!」

 乱暴に大きく揺さぶられ、律の意識が徐々に覚醒していく。突然、耳心地の良いとは言い難いおっさんの声が耳元で爆発した。

「飯だぞ起きろォ!」
「──だあっ!」

 条件反射で律の身体が勝手に飛び跳ねた。敵襲にでもあったのかと、回りを見渡すと、腹を抱えながら豪快に笑う叔父がいた。

「……もっと起こし方あったでしょ」
「なっはっは、悪いな。あんまりにすやすや寝てるもんで、つい」

 すやすやと寝てる甥っ子を爆発音で起こす叔父ってなんだよ、と律は心の中でごちるがあえて口に出すまい。こちらがムキになればなるほど喜ぶ男だから。これ以上からかわれる前に律は話題を変えることにした。

「で、何」
「飯買ってきてやったぞ、感謝しろ~?」

 寝ている間に買ってきてくれたのだろう、叔父は手にぶら提げていたコンビニの袋を律に差し出す。袋の底を両手で受け取ると、じんわりと温かい。

「ごめん、ありがと」
「それ食って頑張れ」
「ん、がんばる」

 叔父の手が律の頭をぐしゃぐしゃと景気よく撫でる。高校2年にもなって叔父に撫でられるのは妙に落ち着かなくて、律は逃げるように手を払いのけた。そうして視線をずらした先でスマホが床に転がっている。どうやら寝ている間に律の手からすり抜けて落ちてしまったらしい。落ちたスマホを拾い上げ、電源ボタンを押した。

「あ、ああ、ああああ!?」
「だあっ、びくりした! なんだよ!?」

 叔父の爆発音を凌駕する絶叫がスタッフルームへ響き渡った。律のスマホ画面には、あのDM画面が映し出されていた。眠りに落ちる直前にスマホを誤タップしてしまったようだ。消し忘れた文面が誤って『透』に送られてしまっている。しかし、律にとってそれはもうどうでもよいことだった。

『あの絵は、俺の曲ですか?』
 そのメッセージの続きはこうだった。

───未読メッセージが一件あります。───
『そうです』



 律は週に1回、作業を早めに切り上げてバイト先から自宅までの道すがら、花屋に寄る。桜色のつぼみに惹かれて、桜の切り花を一輪買った。
 自宅のドアを開け、律はリビングの電気をつける。そうして、リビングのテーブルの片隅に置かれた写真立てに律は声をかけた。  

「ただいま、母さん」 

 ミモザの花を花瓶から抜き、桜の切り花に挿しかえる。律はイスに座り、桜の花に飾られた写真に向かって話しかける。

「いいでしょ、桜の花。外はもうすっかり春になったんだよ」

 当然返事は返ってこない。それでも律は話しかけ続ける。

「俺さ、今春の曲を作ってるんだ。きっと母さんも気に入るよ。……なあ。完成したら、母さんより先に聴いてほしいひとがいるって言ったら、怒る?」 
律はゆっくりと目を閉じる。薄花色の淡さだけが、今も瞼の裏側に焼き付いて離れない。  

「あの人がこの曲を聴いたら、どう描いてくれるのか、知りたいんだ」

 たった3分19秒の音に乗せた、523文字の言の葉を、4000ピクセルの枠組みにすべてを描きだしてくれたように。いつか律の心の中だけで描いた光景をあの青で描いてくれると確信していた。 

 制服のブレザーからスマホを取り出す。  

 結局返信できなかったメッセージの続きを送る覚悟はできた。迷いなく文字を打ち込む。今度は事故なんかではなく自分の意志で送信ボタンを押した。

『俺と音楽ユニットを組みませんか。あなたに俺の曲を描いてほしいんです』 

 数分後に既読が付いたメッセージへ、透から返信があったのはその日から約1週間後のことだった。たった、一文だった。

『ごめんなさい、』

 我ながら単純だと笑いたくなるが、律は久々に熱を出して3日ほど寝込んだ。