音楽なんかで世界は救えない


 律は、約1年ぶりに母の曲を聴いた。

 それは、儀式だった。
 数年もの間、心の中で燻り続けた苛立ちと怒りと失望と絶望の火種を再確認するための、儀式。
 自分のやっていることの正しさを証明するための、言い聞かせるための、自己暗示。

 イヤホンからの音が止むと、律は重く息を吐き、手元に置かれた紙コップのコーヒーに手を伸ばす。
 夕時で賑わっていた店内はすでに数人ほどしか客がいないことに気付く。

 2階の窓側カウンター席からは、スクランブル交差点を行きかう人々の群れが蠢いているのがよく見えた。向かい側のビルに設置された、巨大な屋外ビジョンには厳格な顔つきでニュースを読むキャスターが映し出される。

 左上に表示された時刻は、21時17分。
 随分と長い間ここに居たらしい。

 ───芦屋にちかの言葉が、耳の奥で何度も反芻していた。

 律の心に空いた穴を悪戯に抉り出して、虚無感だけが徐々に身体を支配されていくようだった。

 もし神様ってやつがいるのなら、随分とたちが悪い。けれど、俺を弄ぶことが目的なら芦屋にちかという存在ほど適任者はいないだろう、と律は奥歯を噛み締めた。

 覚悟を問われている。果たしてお前の考えは正しいのか、証明して見せろ、と。

 正しいに決まっている。
 そうでなければ、律は振りかざした拳のもって行き場を失うことになる。一生、このどうしようもない怒りを抱え続けなければならなくなる。

 だから、律は証明しなければならない。『音楽で世界を救えない』ことを。
 
 律は立ち上がった。
 それと同時に、スマホから着信音が鳴った。ディスプレイの表示は『父さん』。次から次へとタイミングの良いことだ。

「……もしもし」 

 画面を指でスライドさせ、イヤホンのマイク部分を口に寄せる。

『律か?』

 疲れ切った声だった。
 随分と父と会話していないから、律はそういえばこんな声だっただろうかと、耳を傾ける。人は声から忘れていくというのは案外、本当なのかもしれない。

「うん。珍しいね、父さんから電話なんて。何か用?」
『……いや、しばらく家に帰れてないからただの確認だ。変わりはないか。ちゃんと学校には行ってるか? 飯、食ってるか?』
「まあ、うん。変わりはないよ。そういう父さんこそ、ちゃんと寝てんの?」
『……もちろんだ』

 嘘だ、と律は直感する。
 相変わらず、父は嘘を付くのが下手くそだ。

『ハウスキーパーさんから、ずっと律の帰りが遅いって聞いたんだが。お前、夜遅くまでどこほっつき歩いてるんだ』

 今度は律の痛いところを突かれる。ITSUKAのことも、Midnight blueでバイトしていることも父は知らない。もちろん、叔父である和久には口止めしている。

「勉強だよ、勉強」
『なら、いいが。前も言ったが、3年になったら受験も控えてるんだ、しっかりやれよ』
「……うん」

 言われなくても分かってるよ、と律は心の中だけで毒づく。

『律』
「なに?」

 父は少しだけ間を置いて、念を押すように言った。

『───間違っても、母さんみたいになってくれるなよ』

 それはまさしく、呪いだった。

 電話や話の終わりに、父が決まって言う台詞。父が己を安心させるためだけに律へ向けられた毒。

「安心してよ。音楽なんて、やらないから」

 息をするように、嘘を吐いた。



 その日、律は自宅までの道中に本屋に寄った。

 閉店30分前の店内には、律以外の客はいない。
 目指すのは、少年漫画のコーナーである。
 
 平台に積まれた漫画の中に、二目メメという名前は見つけられなかった。ここ最近だと、出版されていないのか、それとも連載されていないのか。
 少なくとも漫画大賞を受賞するような作品であれば、本屋ですぐ見つかると思っていた律の目測は外れた。

 一通り探してみたがいよいよ見つからず、律はすぐ近くで作業していた店員に聞くことにした。

「あの、すいません。二目メメって作者の漫画を探しているんですが」

 眼鏡をした大学生のアルバイトらしい店員は、聞きなれない作者名に一瞬首を傾げたが、思い出したように「ああ、」と声を漏らした。

 「二目メメさんの作品ですね~。たぶん、3年くらい前に出版されたやつなんで店頭にはもう置いてないかも。取り寄せできるか確認しましょうか?」
「お願いします」
「分かりました。注文用紙の記入がありますんで、あちらで確認とりますね~」

 律は店員に促されるまま、会計カウンター横に移動する。カウンターに置かれたPCを操作し、記入用紙を準備しながら、店員が気軽に話しかけてきた。

「僕も昔、二目メメさんの作品読んでて~、久々に名前聞きました。あっ、そういえば一個確認なんスけど」
「何ですか?」
「これ未完の作品なんですけど、全巻お取り寄せで大丈夫ですか?」
「……え」

 心が何故かざわついている。
 律は背後に迫る違和感に気づかないふりをしながら、尋ねる。

「連載中ってことですか?」

 その問いに、店員は気まずそうに頬を掻き苦笑した。

「あー……、打ち切りで。いい作品だったんですけど、残念ですよね」



 ありがとうございました、という間延びした声を背に律は本屋を後にした。

 外は肌寒いというのに、律の背中には嫌な汗が伝っている。手渡された注文用紙の控えを、無意識のうちに握りしめていた。

 くしゃくしゃになった紙を広げ、律はポケットに入れていたスマホを取り出し、インターネットで検索する。

 打ち込んだ文字はもちろん、二目メメ。
 そして、律はそこに映し出された文字を見て、後悔することになる。
 検索候補の一番目にはこう、表示されていた。

 ───『二目メメ 盗作』、と。