描く。
描いて、描いて、描いて、ひたすらに描く。
指先の感覚がすでに麻痺していた。握りしめたペン先が己の指先と同化しているような気さえしていた。それでも、描く。描くことだけは絶対に止めない。描き続ける。
───残り時間、あと15分。
焦りと不安で納得できるいい線が描けない。何度も、何度も何度も描いては消し描いては消しを繰り返す。
───残り時間、あと8分。
繋ぎ合わさっていなかった線から色がはみ出る。苛立ちで頭がどうにかなりそうになるのをぐっと堪え、もう一度線を繋ぐ。
───残り時間、あと3分。
その線にのせる色だけは初めから決めていた。それ以外は有り得なかった。真夜中を思い出させる暗く紫がかったその青で、塗り潰す。
───残り時間、あと20秒。
画像に変換したそのファイルを『ITSUKA』で共有しているクラウドに移行する。画像が重くて、全くダウンロードが進まない。もう時間がないというのに。焦りが先行して眩暈がした。そしてようやく、ゲージが100%になった瞬間、透花はすでに手元に準備していたスマホから纏に電話を掛けた。
コールが2回なった後、「もしもし」と発する纏の声を遮って、透花は声を上げる。
「今クラウドに上げた! すぐ確認して!」
『22時、5秒前。……よくやるよ、ほんと、』
電話口で纏が呆れ半分に笑う。
『今来たデータ即編集して、最終チェックするからすぐにうちに来て』
「分かった!」
透花は、大急ぎで家を飛び出す。
中途半端に履いたサンダルがすっぽ抜けて、正面から転がりそうになるのを何とか食い止め、足を踏ん張ってさらにスピードを上げる。肩にかかり切っていないパーカーの裾が邪魔くさい。ぐしゃぐしゃの髪の毛が夜風に靡く。
何度も往復しているはずの何でもない道のりが、何にも代えがたく特別輝いて見えた。
不安もある。怖さもある。後悔もある。
けれど今はそんなことはどうでもいい。駆けだした足は、もう止まれないから。あとはもう世界の終わりまで走るしかない。
透花は、夏の夜を駆けていく。
*
「はあっ、はあっ、しっ、締め切りは!?」
勢いあまって開けたドアの先で、PCの前を取り囲んでいた三人が一斉に透花の方を振り返る。
イスに座ったまま視線だけ寄こした纏が、はっと鼻で笑う。
「僕を誰だと思ってんの? こんぐらいの修羅場なんて余裕だわ。舐めんな。あと30分もあれば完成するよ」
「内心ちょー焦ってるくせによく言う~。透花の前だからって、カッコつけちゃってさ!」
「うっさい! 余計な事言うな!」
佐都子と纏とのやり取りに押さえて笑いを堪えていた律は、ふと透花の反応が何もないことに気が付いてもう一度振り返る。
透花は目を真ん丸に開け、呆然と立ち竦んでいた。徐々にその瞳の奥に鮮やかさが戻っていく。安堵が足先まで回りきるころには、辛うじて支えていた膝の力がふっと抜けて、透花の身体はそのままぺたんと、床に尻もちをついた。
「よ、よか、よかった……」
どうにか間に合ったのだ。
透花の手の先は未だに震えていた。全部をやり切った、という実感がまだ湧かない。達成感が追いつくにはまだ時間が掛かりそうだった。
「透花」
優しく透花を呼ぶ声が降ってくる。
その声につられて見上げれば、律が手を差し出していた。
「……あれがわたしの答えだよ」
律は、小さく頷いた。
あの夜、律が問いかけた質問に対する返答は、あの青がすべて教えてくれた。透花たちだけが知っていた。
律が差し出した手のひらに、透花の柔い手が重なる。透花の手を掴んで、律は自分の方へ引き寄せた。そして透花の耳元だけで聞こえるように、囁く。
「……俺の我儘、聞いてくれてありがとう」
触れた吐息に透花はくすぐったそうに目を細めた。そして、桜色の唇が緩やかにカーブを描きながら、開く。
「ラーメン」
「……ラーメン?」
「お礼はラーメンでいいよ」
何でラーメンなのか、いまいち容量の掴めない律は小首を傾げる。
すると、透花はよりいっそう花が咲くように「だって、」と、満面の笑みを浮かべた。
「最後までやりきった後に食べるラーメン、美味しいんでしょう?」
「……うん、奢るよ。とびきり美味いのを」
ラーメンのスープを一滴残らず飲み干して、丼の中をすべて空にしたときみたいな幸福感を感じながら、律は頷いた。
3曲目のタイトルは、『青以上、春未満』。
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