音楽なんかで世界は救えない


 ステージに上がると、身が引き締まるような感覚がする。そして眩暈に似た緊張感が指まで伝わっていくのだ。存外、その感覚が律は嫌いではなかった。
 戸惑う透花をグランドピアノの背無しイスの半分に座らせ、律はその半分のスペースに腰を下す。
 律は譜面台にノートを広げ、鍵盤蓋を上げる。音楽室以外で見たことのない鍵盤を前にして感嘆の声を上げる透花に、律はこほんと一つ咳払いを落とした。
「思いつきで適当にコード組んでるから、あんま出来を期待しないで聴いてね」
 律が滑らかな手つきで鍵盤に指を置くと、楽譜をなぞるように優しい音がピアノから零れ落ちていく。律の掠れた低く震える声がハミングで、追随する。
 自然と透花の瞼が閉じられていく。ああ、どうしてだろうか。律の音楽に耳を澄ましていると、どうしようもなく描きたくなるのは。

 ───『青春』。

 青春を描くとするなら、わたしは何色の青を手に取るだろうか、と透花はピアノの残響を一つずつ拾いながら考える。
 直視するには鮮やかすぎる青に黒を数滴垂らして混ぜたら、きっと脆くて痛くて苦い味がするんだろう。青春の終わりの、心に穴が開いたような空虚を埋めるなら、朝と夜が曖昧に溶けた境目みたいな紺青が似合うに違いない。
 これだ、と透花は確信した。
 ゆっくりと目を開くころにはピアノの旋律は止まっていた。じっと透花の顔を覗き込む瞳が三日月のように細くなった。
「どれが描きたくなった?」
 透花は広げられた楽譜の中で一枚だけ指さした。
 すると律はぷっと笑いを噴き出して、満足げに頷く。
「だと思った」
 数学の難問を正解した時のように舞い上がって、透花は隣に座る律に詰め寄る。
「あ! もしかして、雨宮さんもこれが一番いいって、」
「律」
 発言の意図を聞き返す間もなく、透花の頬へ律の手が伸びる。白く、少し節の角ばった長い指が遊ぶように頬をくすぐり、透花の頬にかかっていた髪を掬うと真っ赤に染まった耳に掛けられる。
「律って呼んで。俺も透花って呼びたい。だって、叔父さんも抜け駆けで透花ちゃんって呼んでんだもん。ずるい。……ね、だめ?」
 甘く、真綿で締め付けられるような痺れが透花を支配する。
「……り、つくんも?」
 慣れない呼び捨てに口ごもる透花があんまりに可愛くて。律は自分が締まりのない顔をしているだろうと知りながらも、透花から目が離せなかった。
「俺もこれがいいと思ってた。だから、透花と一緒で嬉しい」
「ひえ」
 透花が情けない声をあげてしまったのは不可抗力というやつだった。