音楽なんかで世界は救えない


「ごめん! 遅れた!」
 突然開かれた扉から入ってきたのは、律だった。駅から傘も差さずに走ってきたのだろう、髪先からぽつぽつと雫が落ちて、ブレザーの肩の部分に黒いシミを作っている。
「噂をすれば何とやらだな」
「げ、叔父さん。……もしかして、笹原さんと話してたの?」
「積もる話を色々とな。ほらタオル」
 和久は近くにあったタオルを律に投げると、律はそれを受け取り、和久に向かって顔を顰めた。
「積もる話ぃ? 笹原さんに余計なこと言ってないだろうな?」
「さあ? それは叔父さんと透花ちゃんの秘密だからな」
 律を茶化すように悪戯っぽく笑うと和久は、んじゃ、と肩を何度か捻り欠伸を漏らす。
「あとは若人に任せておっさんは退散するわ」
 和久はついでに掃除よろしく、と律の肩を叩いて嵐のように去っていった。

 静かになった店内で取り残された若人のふたり。軽くため息をついた律は頭にかぶったタオルでぐしゃぐしゃと搔きまわしながら、口を開く。
「叔父さんと何話してたの?」
「……秘密です」
 少なくとも律の口からはまだ語りたくないだろう話を聞いた、と言うことが透花には憚られた。だから胸の奥底にしまって、今は忘れることにした。
 容易く誰かに語るには痛々しい古傷を誰かに抉られたくない気持ちはよく分かるから。
「ふうん? まあ、いいけどさ。なーんか疎外感あるなぁ」
 全然納得のいっていない律から話を逸らすべく、透花は話を切り出すことにした。
「そ、それより、ここに呼び出した理由はなんでしょう?」
「ふは、誤魔化すのが下手だね笹原さん。まあいいよ、呼んだの俺だし。今日は誤魔化されといてあげる」
「アリガトウゴザイマス」
「今日ここに来てもらった理由は、えーっと、あ、あったあった」
 律は肩にかけた鞄の中身をまさぐり、取り出だしたキャンパスノートを透花の前に広げた。
 五線譜のノートに乱雑に音符が並んでいる。
「今回は締め切りのことも考えるとイチから作曲する時間もないからさ、今まで考えたやつでテーマに合ってそうな曲を選ぼうと思って、昨日何曲か選別してきた。つっても、枠組みくらいしか考えてないから早く本腰入れて曲作んないとだけど」
「初めて生で見ました、楽譜」
 まじまじとそのノートを覗き込む透花の様子に律は頬を掻いた。
「殴り書きだから、あんまじっと見られると恥ずかしい」
「わたしが見ても分かんないですよ?」
「笹原さんだって描きかけのラフとか見られたら恥ずかしくなるでしょ。それと一緒」
「あーなるほど」
 未完成のものを見られるのは、どんな創作をしていたところで同じなのか、と透花は得心いった。
「ほかの人には絶対見せらんないけど、笹原さんは特別ね」
「とくべつ、ですか?」
「そう。俺も笹原さんのラフ見ちゃったから、これでおあいこってことで」
「その話掘り返すの無しで!」
 あの日の情景を思い出して透花は恥ずかしさに目を伏せる。透花にとっては忘れてほしい黒歴史でも、律にとってあれほど心打たれた瞬間を忘れるはずもない。くつくつと上機嫌に喉を鳴らして、律は「さて」と振り返る。向けられた視線の行き先はグランドピアノだ。
「こっちきて。笹原さんにも選んでほしい」
 小さい透花の手を引いて、律は小ステージへ上る。