行き慣れない駅の改札を通って、出口に立つと雨の匂いがした。肌に触れるしっとりとした重い空気、見上げた空からか細い蜘蛛の糸が垂れ下がってるように絶え間なく雨が降り注いでる。
まだ眠ったままのネオン街を横切ったその先にジャズバー『Midnight blue』はあった。
店先に置かれた電子看板はまだ点灯していない。地下へ続く階段を何段か降りると、突き当りのドアには、closeのプレートがぶら下がっていた。
「先に入ってていいって言われたけど……」
もう一度律とのラインを見た。ごめん少し遅れる。風邪ひくから中入ってて! とメッセージが書かれている。透花がドアの前で途方に暮れていると、からん、と控えめにベルが鳴った。
開かれたドアから、透花よりも背の高い男性がひょこっと顔を出す。着崩したバーテン服にタバコを口に咥えて、気だるそうに頭を掻いている。しばらく見つめあった後、呆けた表情で透花に問うた。
「……んあ? どちらさん?」
「あ、あの、えっと……雨宮さんにここに来てほしいと言われたんですが」
「ん? んー、ああ!」
バーテン服の男が何やら合点がいったのか、ぽんと手を叩いて透花を指さした。
「もしかして律の彼女?」
想定外の質問に透花は首まで熱くなる。
「か、かの!? ち、ちち違います!」
「うはは、じょーだんじょーだん。反応いいねーお嬢さん」
「……」
出会い頭に面識のないおじさんにからかわれたらしい。
「どうやら間違えたようです。すいません、さようなら」
「あー待って待って! 律に用があって来たんだろう? ならここで合ってるよ」
早々に立ち去ろうとした透花を引き留めたその男は、咥えたタバコを指で挟んでにっと子供みたいに笑う。
「俺、律の叔父さんだから」
朝川和久、と名乗るバーテン服の男は律の母方の叔父だと説明された。とりあえず風邪引くから入りな、と和久に案内され、透花は渋々その誘いを受けることにした。嗅ぎ慣れないアルコールのようなつんとした匂い。こぢんまりとした店内には丸いウッドテーブルにイスが数脚、そして何より透花の目を惹いたのは店の奥に置かれたグランドピアノだ。小ステージの3分の1ほど占めており、天井からスポットライトで照らされることでさらに存在感が増している。落ち着きなく店内を見まわしていると、バーカウンターから和久が顔を出した。
「透花ちゃん、ココア好き?」
「あ、は、はい」
「おっけー」
カウンターの奥に消えていった和久は数分ほどで戻ってきた。トレイにマグカップを二つのせて。バーにはそぐわない、甘くてホッとする香りだ。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
受け取ったマグカップに口につけると優しい味が広がった。
「ど? おいしい?」
カウンターに肘をつき、目じりを下げて笑う和久に透花は小さく頷いた。確かに律と目鼻立ちが似ている。大人になった律はこの人のようになるのだろうか? と、透花は思う。ちらりと覗くように視線を上げると、目線が合った。
「これくらいしかもてなせ無くて悪いね」
「いえ! そんな。突然押し掛けたのにすいません」
和久は子供っぽくへらりと笑う。が、ほんの少し大人の余裕が見え隠れしていた。ピリピリと痺れるような緊張感から逃げるように視線を横に逸らすと、その先に高そうな額縁に入れられた色あせた写真が透花の目に留まる。仰望した画角でフレームに収められた写真に写るのは、ひとりの女性だ。スタンドマイクの前で、スポットライトの光を一心に浴び、心底歌うのが楽しくてたまらないと写真から聴こえてくるようだった。
「その人ね、俺の姉貴。んで、律の母親」
言われてみれば、少し顔が似ている。
「まあ、律がこーんなちっこい頃に亡くなったけどな」
透花は静かに和久を振り返った。
「結構有名なジャズシンガーでさ。俺がここ始めるころにヒットした姉貴の曲が店名の由来なの」
「Midnight blue、ですか?」
「そう。よくそのステージに上がって客の前で歌ってた。チビ律もよく夜更かししてここに聞きに来てたよ。あいつに音楽を教えたのも姉貴なんだわ」
「……全然、知りませんでした。音楽のこと以外、何も」
「まあ、あいつ自分のこと喋んの好きじゃねーからな」
ITSUKAを結成して1か月と数週間が経つが、律から母親の話はおろか、律のことを透花は何も知らない。
「透花ちゃん」
名前を呼ばれ顔を上げると、和久は慈しみを含んだ笑みで言う。
「やっぱり、君だったか」
「え?」
「律のやる気スイッチ入れた顔も知らないお姫さんの正体」
「はい?」
「んーん、こっちの話」
手をひらひらと振り、一人納得した和久は甥っ子の夢中を掻っ攫ったお姫様を見る。叔父として、余計なお節介と分かりつつも可愛い甥っ子のために口添えくらいは許してくれよ、と律に小さく詫びながら言う。
「君さえ良ければ、これからも律のわがままに付き合ってやって。そんで、律の理解者になってくれたら嬉しい。そしたら叔父さん、ちょっと安心できるからさ」
まだ何も知らない無垢な深い青の瞳の奥が煌めく。淡い桜色の唇が呼吸をした、そのときだった。



