「懐かしいねえ」


 しみじみ言いながら舞花はおにぎりを一口かじった。

 僕もそれに倣って頬張る。

 それからは特に会話もなく、僕たちは黙々とおにぎりを食べた。

 いつもは早く食べ終わるけど、今日は早く食べたくなかった。

 舞花のペースに合わせて、僕はゆっくりとおにぎりをかじった。
 
 心地よい静けさの中に、躊躇いがちな舞花の声が放たれた。


「あのさあ……」


 僕はその声に、耳を傾けた。


「もし、500万円好きに使ってもいいよって言われたら、どうする?」


 その言葉にゆっくりと舞花の方に視線を向けると、キラキラとした大きな瞳とぶつかった。

 体を僕の方に向けて、僕の顔を覗き込むような姿勢の舞花から思わず目をそらした。


「え? なに、急に」

「柏原君だったら、何に使う?」

「うーん、急に言われても……何だろう。

 欲しいもの買ったり、やりたいことやったり?」


「例えば?」


「例えば? うーん……良いバッシュ買ったり、プロのバスケの試合見に行くとか……」
 

 そんな僕の話を聞きながら、舞花はくすくすと笑う。


「やっぱり、バスケが好きなんだね」


 こちらに向けられた悪戯っぽい目に、胸が小さく弾む。


「……桜井さんは、どうするの?」


 僕が逆に聞き返すと、舞花は唇を突き立てて不満そうな表情を作った。


「うーん……、それがわかんないから困ってるんだけど」

「え?」

「ううん、何でもない。そうだよね、よくわかんないよね、500万円って」

「何かやりたいことないの?」

「やりたいこと?」


 舞花はベンチの背もたれに体を預けて、何もない青い空にぽつりと吐き出した。


「私のやりたいことって、ふっつうのことなんだよねえ」

「普通……例えば?」

「例えば、家族で何かしたり、友達と遊んだり、好きな人と一緒にいたり。

 それだけでいいんだよね。

 前までは確かに欲しいもの買って、やりたいことやって……とかって思ってたんだけど、実はそこまで何か欲しいとかやりたいとかなくて。

 お金かけて特別なことしなくても、いつもと同じ毎日が続けばいいなあって」


「へえ。欲が、ないんだね」


 僕の言葉に、舞花はふふっと笑う。


「欲はあるよ。だからこうして、今ここにいる」

「え?」

「ううん。とにかく、やりたいことはいっぱいあるんだよ。

 でもそれは、何でもない日常の中にあるわけで、私は今、そういう時間を大切にしたいんだよね。

 お金で何かを買うとかじゃなくて。

 まあ、お金で解決できることも多いんだろうけど……」
 

 そこで言葉が切れて、舞花の瞳がこちらに向けられた。


「でも、時間はお金で買えないでしょ?

 時間は、みんなに平等に与えられてるものだから。

 お金で増やすことは、できないでしょ?」


 そう言った舞花の表情に、僕の胸が切なく震える。


 何だろう。

 どうしてそんな寂しそうな目をするんだろう。

 どうして僕まで、こんな気持ちになるんだろう。


 そんな気持ちを払しょくするように、僕は堅実的な考えを舞花に提案した。


「今使いみちが決まってないなら、貯金したらいいじゃん。将来のために」


 その言葉に、舞花のまとう空気が一瞬止まったような気がした。

 そして彼女は、ゆっくりと僕に聞いた。


「……将来って、何年先まで考える?」

「うーん。10年後とか、20年後とか?」

「22歳と、32歳?」

「……うん」

「想像、できる?」

「想像は、できないけど……。

 でも22なら大学出て仕事してたり、32なら結婚したり子供がいたり……とか?」


「なるほど。すごいね。そこまで計算して考えてるんだ」

「いや、そういうわけじゃ……」


 最近たまたま学校のホームルームで、自分の未来予想図を書く授業があった。

 僕は本当に全然想像できなかったんだけど、先生になかなか好評だった人の未来予想図を覚えていただけだ。

 本当に、お手本のような未来予想図。

 だから、僕の答えではないし、僕はそんな先のことまでまだ考えていない。


「じゃあ、6年後は?」

「え?」

「6年後は、何してる?」



 6年後、僕たちは18。

 僕は、何をしているのだろう。

 高校を卒業して、大学に行くのだろうか。

 6年後もこうして、ここでボールを投げているのだろうか。

 そのそばに、舞花はいるのだろうか。
 
 舞花はこうして、僕の隣にいるのだろうか。

 ずっと先の未来よりも、もうすぐそこに見えている未来に戸惑う。

 だってそれは、ずっと先の未来よりも、ずっと不透明な気がしたから。
 
 ぼんやり考えている僕の隣で、舞花はクスリと笑った。

 表情は変わっても、先ほどから感じていた寂しさは消えなかった。


 その時、8時の鐘が鳴った。


「あ、朝練行く時間だね」

 
 そう言って、舞花はすっと立ち上がった。


「おにぎりありがとう。明日は私が作ってくるよ。具は鮭と梅干でいい?」


 その言葉に、僕の胸が弾む。

 舞花がおにぎりを作ってきてくれるから? 
 
 もちろん、それも正解だけど……

 
 僕が「うん」と小さく首を縦に振ると、


「また明日」
 
 
 と舞花は明るい声で言った。


「うん、また明日」


 僕は「明日」という言葉に、力を込めた。


 明日も、舞花に会える。