それは小学校一年生の時だ。

 僕はバスケットボールチームに入った。

 理由は単純だった。

 学校の昼休みに体育館でバスケをしていた六年生を見て、舞花が言ったからだ。



__「かっこいい……」


 
 ……なんて。


 バスケをしている六年生は、背も高くて動きも機敏で、何より楽しそうだった。

 その笑顔がまぶしかった。

 それだけだ。

 僕も見てほしかった、舞花に。
 
 「かっこいい」って、言われたかった。

 それに、純粋に面白そうだと思ったからだ。

 僕がバスケットボールチームに入ったことを伝えると、舞花も入りたいと言っていた。

 結局両親に反対されて、舞花は入れなかったんだけど。


__「ダメだって」


 そう言った時の、舞花の表情と同じだった。

 諦めが滲む笑顔と、寂しい目。



 僕はゴールネットを潜り抜けてそのまま転がっていったボールを拾い上げると、舞花に声をかけた。


「桜井さんも、やる?」

「え?」

「暇でしょ」

「そんなことないよ」


 そう言う舞花の足元に、僕はころころとボールを転がした。


「ほら、パスして」


 舞花は恥ずかしそうにボールを手にして、僕の開いた掌に向けてボールを投げた。


「お、上手いじゃん」

「パスしただけだよ」

「シュートしてみる?」


 そう言って僕はもう一度舞花にボールを投げ返す。

 舞花はボールを受け取ると、ゴールと向かい合った。

 そして、腕に力を込めて投げた。

 にもかかわらず、舞花のボールはゴールネットにも届かず、途中で失速して落ちていく。


「全然届いてない。バスケットボールってこんなに重かったっけ?」


 不服そうなその姿がかわいらしかった。

 舞花のふくれっ面を、久しぶりに見た。


「もっと前行ってもいいよ」


 何度か距離を調整したけど、リングやバックボードにぶつかることはあっても、ボールがネットを通過することはなかった。


「なんで入んないの?」

「まずさあ……」


 僕はそう言いながら、シュートの時のフォームについて説明した。

 腕の使い方、力加減、指先、どこを狙うか。

 それでも舞花のシュートは外れた。


「なんか違うんだよね。腕が……」


 そう言いながら、僕は舞花の後ろに回った。

 昔はそれほど身長差なんてなかったけど、いつの間にか僕たちの身長差は10センチほどになっていた。

 近づけば近づくほど、舞花の頭頂部がはっきりと見えた。

 舞花の細くて白い腕にためらいながらもそっと触れると、柔らかくて滑らかな感触が指先に伝わってくる。

 ポニーテールの毛先が、僕の胸の辺りでさらさらと揺れる。

 そこから上昇してくる、舞花の匂い。

 体同士が今にも触れ合いそうになると、舞花の背中越しに僕の胸の鼓動が伝わってしまいそうで、それが余計心臓をどくどくと動かせた。

 それを誤魔化そうと少し距離を置こうと意識するんだけど、体の方は正直で、磁石で引き寄せられるように、僕の体は舞花から離れるどころか接近していった。

 自分でも、どうにもできないでいた。


__もっと近づきたい。

__後ろから、抱きしめてしまいたい。


「手の位置はここで……」


 腕の方から滑らかな皮膚を伝ってすーっと指先の方に移動すると、僕の手がボールを構える舞花の手をそっと包み込む。

 舞花の小さな手、細い指。
 
 保育園の頃は、よくこの手を握って散歩をしていた。

 あの頃は、何も考えずに触れられていたはずなのに。
 
 昔とは何もかもが違う舞花の感触に、離れていた時間の長さを思い知る。
 
 そして自分との違いにも。
 

 僕は男になっていき、舞花は、女になっていく。

 
 迫りくる胸の苦しさに眉間にしわを寄せたときだった。

 ぐーっという鈍い音が足元の方から聞こえてきた。


「あ、ごめん」


 何も言っていないのに、舞花は気まずそうに僕に謝った。


「朝ご飯、食べてきてなくて」


 ちらりと僕に視線を向ける彼女がおかしくてたまらなかった。

 なんだか、舞花らしかった。

 僕は笑いをこらえて、すたすたと鞄の置いてあるベンチに向かった。


「食べる?」


 僕が鞄から取り出したのは、ラップにくるんだおにぎりだ。


「え? いいの?」

「うん。部活始まる前に食べるつもりだったし、2個あるから。

 梅干しと鮭だけど、どっちがいい?」


「じゃあ、鮭」


 僕が鮭の方を指しだすと、舞花は申し訳なさそうに受け取った。

 そしてベンチに座って、二人で食べた。


「うーん、おいしい。おにぎりってこんなおいしかったっけ?

 柏原君のお母さん、おにぎり上手だね」


「それ、俺が握ったんだよ」

「えっ、すごい。おにぎり握れるの?」

「誰だってできるでしょ」

「そ、そうかなあ……。でも、すごくおいしい」

「動いた後だから、余計おいしく感じるんだよ。

 人も動き出してない静かな時間だから、空気も澄んでるし、特別感の中で食べてる感じっていうか。

 だから、朝ここで練習しておにぎり食べる時間が、俺はすごい好きなんだよね」


 ほめられた気恥しさを紛らわせようと、ついついしゃべりすぎてしまった。

 そんな僕を、舞花は静かな微笑みで見つめる。

 だけどそれからは特に会話もなく、僕たちは黙々とおにぎりを食べた。

 大きめに作っているけど、いつもはめちゃめちゃお腹が空いているからすぐに食べ終わる。

 だけど今日は、思うように進まなかった。
 
 二人の間の沈黙の中に、僕は次の話題を探した。
 
 話したいことや聞きたいことは山ほどあった。
 

 どうしてここにいるの?
 
 転校先はどう?
 
 友達はできた?
 
 好きな人はいるの? 
 
 付き合ってる人は……
 

 おにぎりをちびちびと口に運びながら、僕はそわそわとした胸を抑えようとしていた。

 聞きたいことはたくさんあるのに、それを口にできないのを、おにぎりのせいにした。
 
 そんな微妙な空気の中に、舞花の声がそうっと入り込んできた。


「昔さあ、ここで柏原君にバスケ教えてもらったよね。一週間だけ」


 舞花が懐かしそうに話す声は、緊張で固まった声ではなく、僕の知っている素の舞花の声だった。

 その声がようやく聞けて、僕の緊張も少しほぐれるように、「ああ……」と声が漏れた。


「舞花の習い事ボイコット事件?」

 僕が悪戯っぽく言うと、舞花も「そうそう」とおかしそうに同調した。