「普段からもう少し頻繁に近況を報告するべきでした。そうしたら、こんな事にならなかったのに……」
「いや。俺も小春に答えるべきだったんだ。結婚したばかりの頃、小春はこまめに話しかけてくれた。ニューヨークに行ったばかりの頃も定期的にメッセージを送ってくれたのに……。仕事を理由に返信を疎かにしてしまった。駄目だな。こんなにすれ違ってばかりで」

 楓さんははあっと大きく息を吐き出す。

「……ずっと、逃げていたんだ。君を救うと言いながら裁判で敗訴して、好きだった仕事を辞めさせる事になって、どんな顔をして会えばいいのか分からなくなった。小春が傷ついている顔を見たくなかった……。それもあって、逃げる様な形でこっちに来てしまった。日本の方が安全だと、家の管理をお願いしたいと、理由をつけてまで君を置いて」
「楓さん……」

 裁判で敗訴した事が、楓さんとすれ違うきっかけになった様な気はしていた。それでも、まさか楓さんが私の裁判について責任を感じていたとは思っていなかった。裁判の結果に限らず、楓さんが顔を合わせてくれないのは、ずっと契約結婚だからとも思っていた。――もしかしたら、自分に原因があるのかもしれないとも。

「こっちに来ても、ずっと小春が気掛かりだった。それでも合わせる顔が無くて、目を逸らしてばかりいた。このままじゃいけないと自分でも思っていたさ。だからこそ、こっちで弁護士として、男として成長したなら、小春に向き合えると思っていた。もう一度、やり直せると思っていた。でも何も変わってなかった。小春から逃げてばかりで、傷つける様な事を言って、嫌な事をして、自分から遠ざける様な事ばかりして……。呆れるよな。これで弁護士を名乗っているんだからさ」
「そんな事ないです……! 楓さんはいつだって私を気遣ってくれました。弁護士として、一人の男性として、いつだって優しくて、頼もしくて、素敵で、私には勿体ないくらいで……。それに裁判の結果に限らず、私は近い内に仕事を辞めていました。あのまま働いていたらもっと身体を壊していました。きっと心さえも……」

 楓さんと出会う前、パワーハラスメントをされながら働いていた日々を思い出す。空調の悪いバックヤードで、どこか体調が悪いのを我慢して働く私。仕事中に息苦しくなって陰で休んでいると、仕事をサボっていると言われて上司に怒られるから体調が悪くても無理をして働いた。
 社員やアルバイトの中には私の体調を気遣ってくれる人がいたが、上司の目がある手前、誰も表立って心配してくれなかった。下手に話しかけると、仕事を怠けて他の人と雑談しているとして、私が上司に怒られるのを知っているからだった。

「でもあの日、楓さんに出会って、飛び降りようとしていたのを引き止めてくれて、親身に話を聞いてくれて、泣き出した私を抱き留めてくれただけで救われたんです。最初に会った夜、橋の上で飛び降りなくて良かったって……ううん。きっと誰かに引き止めてもらいたくて、橋の上で待っていたんだって」

 自死を決めた者が、わざと人目のつくところで命を絶とうとするのは、誰かに止められたいからだという話を聞いた事がある。きっと、あの日の私もまさにそんな気持ちだったんだと思う。
 私はまだ生きていていいと、生きていて欲しいんだと。誰かに私の存在を肯定してもらって、この世界に引き止められたかったんだと。
 そんな私の望みを叶えてくれたのが、あの日出張に来ていて、偶然あの橋を通りかかった楓さんだった。
 引き止めてくれたのが楓さんだったから、私は今でもこの世界にいる。辛い日も苦しい日もあるけれども、生き続けようと思える。
 まだ未来に幸せな日々が待っていると、一縷の望みを持ち続けられる。