「さっきも言った通り、今まで勉強しかやって来なかった。大学を卒業してからは仕事ばかりしてきた。女性と付き合った事は無いな。子供の頃は別として、大人になってからは手さえ繋いでいない」
「ジェニファーとも……?」
「アイツはただの幼馴染みだ。そう言う小春はどうなんだ。彼氏を作った事は無いのか?」
「無いですよ。私、そんなに可愛くないですし、合コンも全く誘われなかったですし」
「周りも見る目ないんだな。俺の様に、案外、自分が求めているものは、すぐ近くにあるかもしれないのに」

 楓さんの言葉に私は仰天してしまう。

(それって、私は楓さんが求めていた存在だって事……!?)

 もしかしたら、自惚れかもしれないし、気を遣って言ってくれただけかもしれない。
 それでも、楓さんの言葉と先程の様子から、そう考えてしまったのだった。

(どうしよう。緊張してきた……)

 好きか嫌いかで言ったら、楓さんの事は好きだ。でも、この感情は恋慕ではないと思っていた。
 年上のお兄さんとしての親愛。例えるなら、同僚の先輩に憧れ、慕う様な感情だと思っていた。
 それなのに、今日はずっと楓さんを意識している。
 妻と呼ばれて喜び、手や顔に触れられて落ち着かなくなって、今まで他に彼女がいなかったと聞いて安心している。
 これではまるで、楓さんに恋をしているみたいだ。

 どうして、デートをしただけなのに、こんな感情になっているんだろう。
 まだ離婚届を送ってきた真意も、手帳に書かれた「帰国」の意味も、何も判明していないのに――。

「それにしても、顔に口付けるなら眼鏡が邪魔だな。小春の顔に当たってしまう」

 そう言って、銀縁眼鏡を外した楓さんの横顔がいつにも増して魅了的で、私は自分の胸が高鳴る音を聞いた。

「その眼鏡。度が入っていませんよね。どうして掛けているんですか?」
「伊達眼鏡だと気づいていたのか」
「この前、洗面台に忘れていたのを見つけた時に気づいたんです」

 ここに来たばかりの頃、夜に洗面台を使っていると、楓さんが眼鏡を置き忘れているのを見つけた。恐らくシャワーを浴びた時に外して、そのまま部屋に戻ってしまったのだろう。楓さんに眼鏡を届けようと眼鏡を手に取った時、何気なく眼鏡を覗くと、全く度が入っていない、伊達眼鏡である事に気づいたのだった。

「ずっと視力が悪くて眼鏡を掛けていると思っていたので、度が入っていないとは思わなくて」

 驚いた風に話したつもりだったが、楓さんは「それは……」と恥ずかしそうに話し出す。

「昔から童顔だからか、眼鏡を掛けないと年若く見られて、相手の弁護士、場合によっては警察や裁判官にまで甘く見られるんだ」
「そんな理由だったんですか……」
「この国に来たばかりの頃はそれが顕著だったよ。日本人は若く見られやすいと聞いていたが、まさにその通りだったな。小春の年齢よりも下に見られた事もあったよ」

 確かに、楓さんはどこか華奢に見えなくも無いので、実年齢より歳下に見られてもおかしくない。ただ、まさか私の年齢である二十六歳よりも年若見られた事があったとは思わなかったが。

(三十三歳の楓さんでさえ歳下に見られるのなら、私は大学生くらいに見られるのかな?)

 眼鏡のレンズを服で拭いて、掛け直した楓さんはそっと息を吐く。

「アメリカの裁判はな、日本以上に見た目が重視されるんだ。スーツの着こなし方から髪型、持ち物まで。どんなに自分側の主張が正しくても、見た目だけで陪審員から票を得られない事もあるんだ。日本の裁判とは大違いだ」
「そんな違いがあったんですね」
「陪審員制度を取るアメリカならではだけどな。それに、俺に依頼をしてしまった為に敗訴したのだとしたら、クライアントに顔向け出来ないだろう……」

 過去に実経験したのだろうか、楓さんは目を伏せると、眼鏡の位置を直したのだった。

「でも童顔だからって、家でも掛けなくちゃいけないんですか」
「たとえ度が入っていなくても、長年掛けているからか、すっかり身体の一部になっているんだ。掛けていないと落ち着かない。それとも――」

 楓さんは眼鏡を外して胸ポケットに仕舞うと、両手で私の両頬を挟むように顔に触れる。

「お前は、こっちの俺が好みか?」