不覚にも抱きしめられて、何もできなかったことに、八雲は情けない思いでいっぱいだった。抵抗して、すぐに離れられなかった自分が許せなかった。お風呂の中で、冬の湯船に心を沈ませる。次はないんだからと何度も何度も、八雲は湯煙に唱えた。

昼休み。いつものように旧館に行こうとした、その時。裕也から声をかけられる。

「北条、ちょっと」
「何?」
「今日さ、ツミキが変なんだよ」
「いつものこと」
「そうじゃなくてさ、お前は幼馴染なんだからわかるだろ」
「知らん」
「相変わらず冷てーなぁ」
「それが優しさだと解釈しているが」
「お前に聞いた俺が悪かったよ」
「そうだな」

八雲は足早に、裕也から離れる。そういえば今日、一度もツミキに会っていない。めずらしいことだ。それが何を意味するのか、考えても仕方ないと、八雲は思う。旧館に着いた。八雲が入ろうとした時、向こう側から出てくる女子生徒が2人いた。

(めずらしい)

旧館に二人組で来る生徒はいない。話し声が聞こえる。

「脇山先輩、信じられない」
「仕方ないよ。好きな人いるみたいだいし」
「でもさ、言い方ってもんがあるじゃない」
「脇山先輩がああいう言い方する人だってうわさあったし」
「何人も振ってるってね」
「でも、実際言われちゃうとツライね」
「もー、行こ行こ。男は先輩だけじゃない」

そんな会話をしながら八雲を通り過ぎて行った。このまま旧館に入ってもいいもだろうかと、八雲は悩む。だが、今日返却の本があったため、入るしかないと腹をくくった。

「八雲、どうした。そんなに暗い顔して」

奏が覗き込んでくる。

「さっき、女の子2人組が、先輩の話してて」

奏は覗き込むのを止めない。

「ツラかったって言ってて」

八雲は、自分で自分が何て言いたいのかわからないでいた。

「それを自分のせいだと思ったわけ?」

奏にずばり言われて、八雲は横を向く。そうなんだ。自分とこんな付き合い方をしていなければ、さっきの女の子も傷つくことはなかったかもしれない。奏も普通の恋愛を楽しめたはずだ。昨日、ツミキに抱きしめられて、抵抗しなかった自分の態度が、奏に対して申し訳ない気持ちもしていた。

「先輩は今まで何人もの女の子に告白されたんでしょ。その中に付き合いたい子、いなかったんですか」

奏に聞いているのに、奏を見ることができない。

「あのさ、今、僕が八雲の事、大切で大好きだってことじゃダメなの?」
「やっぱりこの付き合い方、不自然ですよ」
「じゃさ、ここで僕にしかできないことしていい?」
「なっ」

八雲は後ろに下がろうとしたが、本棚に背中とかかとが当たって、思ったほど奏と離れられなかった。八雲と奏の間にある、冷たいはずの空気が、温度をあげた。



「八雲、動かないで」
「そんなこと言われても」
「僕に申し訳ないと思うんでしょ。だったら動かないで」

細長い奏の指が、八雲の顔を包む。逆光を身にまとった奏の顔が真剣で、八雲は目をそらすことができなかった。奏が今から何をしようとしているのか、考えても仕方ない。八雲は奏での一挙一動を見ないで終わるより、最後まで見ていようと思った。時間が止まっている。八雲の瞳は、奏をずっと捉えていた。

「はい。ほこり」
「へ?」
「前髪に付いてたよ」

奏が笑っていた。いつもの奏だ。

「ぁりがとうございます」
「もしかして、違うこと想像してた?」
「そっんなことないです」

本当にそんなことはないのに、八雲は焦っていた。後ろに下がれないのに、また下がろうとして、今度は後頭部を打つ。

「痛っ」
「ほらほら気を付けて」

奏が後頭部を撫でてくれる。そしてそのままぐっと引き寄せられる。無防備な八雲は、されるがままになった。奏の広い胸に顔面がくっついた。奏の優しい声が、近くで響く。

「つづきはまた今度」

(!!!!!)

午後の授業は体育だった。長距離マラソンで、校外に出た。町はもうクリスマス一色だった。メインストリートを抜け、田園を走る。人も車もいなくて、走りやすかった。人生もこれだけ単純ならいいのに、と八雲は白い息を吐いては吸った。

つづく