「赤い月」
お風呂から出てダウンライトしか点いていないリビングに足を踏み入れえると
リビングの大きな窓をソファーの背もたれに寄りかかるように夜景を見ている
柚菜の口から出た言葉・・・
「赤い月?」
「そう、今 何故か急に 頭の中に浮かんだの・・・」
「月が赤く見えたり、オレンジに見えるのには大気の影響を受けているんだよ。
それと月の出、月の入りの時は月が地平線に近いから赤く見えるんだ。」
「フフフ 流石 理系なだけあるね。答えが完璧。でも私が頭に
浮かんだ月はそんな赤じゃないんだ・・・もっとおどろおどろしくて
自分の嫌な部分を見透かされるようなそんな赤・・・」

そう口にして尚 月を見る柚菜の横顔は吃驚するくらい綺麗で怖かった。

俺は月が嫌いだ・・・あの日を思い出す。

柚菜が大学1年の9月 その年は9月に入るとそれまでの猛暑日が嘘の様に
鳴りを潜め低温注意報が出る年だった。
親父の会社にアルバイトで入って5年目。色々と仕事を覚えアルバイトなのに
それなりに忙しく過ごしていて、あの日も帰宅が遅くなり家に着いたのが
22時過ぎていた。
疲れた体を早く湯船に沈めてベッドに潜り込んで泥の様に眠りたいと
考えていたから気付くのが遅れた。
佐倉家の門の前に佇む(たたず)2つの陰に・・・

2つの影は遠目からでも抱き合っている様にしか見えなかった。
ドクン、トクンと鳴る心臓の音が彼らに聞こえてしまうような気が
したのに2人の世界に入っている彼らには俺の存在も音も何も気になら
ない・・・
近過ぎる顔と顔。もう鼻先が触れ合う位の距離・・・・
トクン、トクン鳴り響く鼓動。
この先、2人が何をするのか解る・・・止めないと・・・なのに足も手も声も
出ない。
だって、2人はまるで映画のワンシーンの様に美しかった。
2人の漆喰の髪の毛が闇の中で煌めき、柚菜の白い肌がほんのり赤みをさし、
彫りの深い精悍な顔つきの男とのバランスが息を呑むほどに美しく
そこはかとない雰囲気に息をするのさえ忘れそうになった。
2人の唇が重なり合い、柚菜の目から涙が零れたのが見えたのは
中秋の名月だったからか、満月だったからか‥・月明かりが何時もより
明るく2人の表情がハッキリと見えた残酷な瞬間(とき)を今でも
ハッキリ覚えている。
貪るようなキスでも無く、唇が触れるだけの初心(はじめて)のキスでも無く
俺の知らないキスを交わし、柚菜は自分の首に巻いていたストールを男の
首に巻き、何も言わないで門に吸い込まれていった。
男は見えなくなった姿が、まるで見えているかのように見続け、
首をあげ、2階を注視していた。
いつまでたっても点かない柚菜の部屋の窓を俺も一緒に見つめたまま。
一瞬、カーテンが揺れた・・・ほんの一瞬。
男がそれを確認すると同時に頬を伝った一筋の涙が月明かりに光っていて
同性なのに美しいと感じ、それと同時に2人にしか解らない、その暗闇の意味が
切なくて苦しくて腹立たしかった。
あの日、柚菜は永遠に自分のモノにならないと悟った。
自分が何処で間違ったのか、自分が何を失くしてしまったのか、
いい加減に曖昧に生きて来た結果を思い知らされた。
柚菜がT大に受かった時に感じた焦燥よりももっと、もっと、自分の根幹を
根こそぎ倒された痛みに湯船もベッドの中も母親の胎内に居る時の様に
丸まって過ごした。
一睡も出来ないで朝を迎えたのは人生で初めてだった。