しとしとと、降りだした雨。
 空は、鉛色の雲に覆われ、薄暗い。
 梅雨明けは、もうしばらく後のようだ……

 スポーツジムを出た後、保科のいるカティ・サークへと向かった里美。
 あいにくの天気だが、ハンドルを握る里美の心は、晴れやかだった。
 渡瀬の娘さんの話しには、少々、驚かせられたが… 第1回目のプレゼンは、大成功。 正式契約も取れたし、デザインコンセプトも、OKが出た。
 今日は、知人宅に行くと言って、直帰の届けが出してある。 ゆっくりと、カティ・サークにいられるのだ。 …天気が良ければ、以前、保科が言っていたように、夕陽が見れそうであるが… 今日の天気では、無理だろう。
( まあ、休日に来れば、いつでも見られるし… それより、看板、楽しみだわ…! )
 保科に会えるのは、もっと楽しみである。
 里美は、ワクワクしながら、車を飛ばした。

 雨に佇む、カティ・サーク。
 霞む空気に、店の外壁の白が、新鮮だ。
 ただでさえ静かな所だが、雨の日の今日は、尚更、その静けさが感じられる。
 逆に、波の音は雨に反射し、幾分、いつもよりは、静かに聞こえる気がする。
 店内に灯る白熱灯の、ノスタルジックな淡い明り……
 鉛色の空をバックに点々と灯り、まるで絵画のようだ……

 駐車場に車を入れ、外に出る里美。
 店内入り口の軒先の下に、大きな木の板が掲げてある。
 『 CUTTY SARK 』
 里美のデザインした通りに、忠実に再現してあるロゴタイプ。
 白木の木彫りの中に、ブルーグレーで色が着色してある。 里美が、希望した通りだ。
( イイじゃ~ん…! 雰囲気、出てるわ~……! )
 さり気なく、かつ、お洒落だ。
 多少、中心辺りに膨らみを持たせ、斜体をかけたロゴタイプ……
 よく見ると、小さなライトまで設置されていた。

 雨に煙る海と、白い外壁の、カティ・サーク。
 モノトーンの、この景色もまた、どこか旅情を誘う……
 国産車が駐車場に止まっていなかったら、外国の風景のようだ。
 里美は、想像以上の出来栄えに満足し、店内に入った。

 『 カラン、カラン 』
「 いらっしゃいませ 」
 いつもの保科の声… いつもの鐘が鳴る。
「 こんにちは~ 」
「 やあ、吉村さん。 いらっしゃいませ。 …見て頂けました? 」
 トレイを小脇に抱えた保科が、入り口付近で、にこやかに出迎える。
「 はい! 凄く、イイ感じです! 我ながら、見惚れちゃいました 」
 保科は、微笑みながら答えた。
「 お客様からの反応も、上々ですよ? 有難うございました。 お願いして、本当に良かったです 」
 一礼する、保科。
「 こちらこそ、良いお仕事をさせて頂きました 」
 里美も、軽くお辞儀をする。
 保科は、店内に、里美を招き入れるように右手を出しながら、言った。
「 どうぞ、どうぞ… いつものお席で、宜しいですか? 」
 チラっと、テラスを見やる、里美。
 窓からは、雨に煙る海と、ねずみ色の空が見えた。

 …外は、さほど風は無い。
 6月も下旬に入り、日の差さない雨の日でも、寒くはないだろう。
 カウンターでの、保科との会話は、後の楽しみに取っておき、雨のしと降る海を眺めるのも一興だ。 テラスには、誰か、先客もいるようである。

「 じゃあ… まず、テラスで頂きます。 いつものブルーマウンテンを 」
「 かしこまりました 」
 保科が、テラスへのドアを開け、里美をエスコートする。
 白いイスに腰を下ろし、里美は、海を眺めた。

 …遠く、灰色に霞んだ水平線を、1隻の貨物船が航行している。
 マストの先に、小さく点滅している灯り。
 煙突からは、かすかな排煙が上がっていた…

( これもまた… 絵に描いたような景色ね……! )
 保科が置いて行ったグラスを手に取り、水を、ひと口飲む。
 崖下に打ち寄せる波の音が、優しく響く……
 風は、無風のようだ。
 海辺で、こんなに風が無いのは、珍しい。
 もっとも、強風の時に、ここへ来た事は無いが……

 大き目に作ってある軒のお陰で、今日は、テーブルの所までは、雨が降り込まないようだ。
 音も無く、しとしとと降る、梅雨の雨… 何とも、風情がある。
( いつ来ても、それなりに、イイ所だわ…… )

 里美は、ふと、隣のテーブルにいた客を見た。
 男性客が、1人で座っている。
 何やらテーブルに紙を広げ、熱心に書き込んでいる。
 歳は、20代後半。 長髪の髪に、上下のジーンズスタイル。
 白いTシャツの胸には、銀色のペンダントをぶら下げていた。
 テーブルには、サンドイッチでも食べたのだろうか… 籐で編んだバスケットと、コーヒーカップがあった。
 何気無く、その男性が書き込んでいた紙を見る。
( 五線譜…… )
 男性は、楽譜を書いていた。
 音楽は、ラジオから流れてくる曲を、BGMとして聴くだけだった里美。 譜面など、高校の音楽の授業以来、見ていない。
( 静かな所で、作曲でもしてるのかしら。 ドラマの、ワンシーンみたいね。 こんな、良いシチュエーションの所だったら、さぞかし悦に入って、良い曲が書けそう… 趣味で、音楽をしてる人なのかしら )
 時折り、頭をかきながら、楽譜を書き続ける、彼。
 まさに、没頭しているようだった。
 彼が、ふと、顔を上げ、海を見た。 何やら、ぶつぶつと呟いている。
 再び、五線譜に目を移し、書き込む。
 困ったような表情でペンを止め、気が付いたように、音符を書き込む、彼。
 里美は、何か、その仕草がおかしくなって、クスっと笑った。

 やがて、保科が、あのカップとソーサーを持って、テラスに出て来た。
( マイセン……! )
 そうだった。
 これは、里美の、マイカップになったのだ……
 忘れていた里美は、少し緊張した。
「 お待たせ致しました 」
 カップに、コーヒーを注ぐ、保科。
 香ばしい香りが、湧き立つ。 …保科と、目が合った里美。
 保科は、里美の心情を察したのか、にっこりと微笑みながら言った。
「 ごゆっくりどうぞ、吉村様…… 」
 里美も、微笑みながら答える。
「 有難うございます、保科さん 」
( 使わせて頂きます… )
 心の中でそう言った、里美。
 多分、保科には、伝わった事だろう。
 店内に、保科が戻った後も、里美は、じっとカップを眺めていた。

 …ゆっくりと立ち上がる、ひと筋の、細く淡い湯気。
 茶褐色のコーヒーが入れられたカップは、絵付けされたグリーンの色と相まって、見事な色彩美をかもし出している。

( 綺麗……! )

 こんな、コラボレーションの美しさを、見た事が無い。
 加えて、モノトーンな周りの風景…
 遠くを行く、貨物船の船影と、点滅するマスト灯。 軒から落ちる、雨の雫……

 里美は、うっとりしながらカップを持つと、炒れたてのブルーマウンテンを、ひと口、飲んだ。

( …美味しい…! )

 今日の味は、また、格別だ。
 左手を、そっとカップに添え、コーヒーを堪能する、里美。
 ふと、隣のテーブルの彼と、目が合った。
 慌てて視線を反らす、彼。
 だが、音符を書き込もうとした手を止め、ゆっくりと顔を上げると、じっと里美を見つめた。
「 ? 」
 里美も、彼を見つめる。
 やがて、彼は言った。
「 その、カップ……! 」
 彼は、このカップを見つめていたのだ。
「 はい……? 」
 怪訝そうに、カップをソーサーに置き、彼を見据える、里美。
 彼は言った。
「 君の… かい……? 」
 …彼は、このカップにまつわる話しを、知っているのだろうか…?
 単に、アンティーク陶器に興味があるのかもしれない。

 里美は、無言で青年を見つめていた。