京都、嵐山旅館の若旦那は記憶喪失彼女を溺愛したい。

そして翌日。


春菜はいつもより10分ほど早く出勤して制服に着替えを済ませると、真っ直ぐ田島の元へ向かった。


田島は春菜を見るなり渋い顔になり、『なんだよ』と突っぱねるような声を出す。


今まで気が付かなかったけれど、この人は仕事もプライベートもごちゃまぜにしてそのまま態度に出す人みたいだ。


春菜は背筋を伸ばしてスーツの内側から辞表届を取り出した。


両手で持つと少しだけ手が震えた。


でも大丈夫。


すぐに次の仕事が見つからなくたって、貯金だってあるんだから。


しばらく休んで傷を癒やして、それから再出発するんだ。


ここまで来て物怖じしてしまいそうな心を奮い立たせて『今日付で退社させてください』と、辞表届を田島に渡した。


田島は苦々しい表情でそれを受け取ると『それでいいのか君は』と言ってきた。


春菜は唇を引き結んでうなづく。


『嫌なことがあってすぐやめるなんて社会人失格だぞ!』


ドンッとデスクを叩いて怒鳴られ、周りにいた社員たちが一斉に視線を向ける。


前からそんな田島を見て上司らしさのある人だと感じたかもしれない。


でも今は部下のわがままを叱る上司という演出がしたいだけなのだと理解できた。


嫌なことの原因が自分であると田島だって理解しているはずだ。


きっと、本気で春菜を引き止める気もないのだろう。