そんな話をしたからだろう、――――その日の夜、同じベッドに入った紗世に、俺は「この子の父親は、どんな奴だ?」と尋ねてしまった。一拍遅れて後悔にも似た罪悪感が湧き上がるが、一度口にしてしまった言葉は取り消せない。紗世が困ったように、曖昧に微笑むのを見つめながら、俺は彼女の口が開かれるのを待った。
「すごく、尊敬できる人です。優しくて、皆に頼りにされていて……忍耐強くて、こうと決めたら曲げない信念を持っていて……」
「……」
「私は弱い人間なので、彼のそういう強さに惹かれたのかもしれませんね」
 柔らかく優しい、大切な思い出を拾い上げるような声音。
 思っていたよりもずっと温かに語られたその男への想いに、心臓がぎしりと軋むのが分かった。最近は遠ざかっていたはずの滾るような嫉妬が息を吹き返し、喉を締め上げる。声が微かに震えるのが分かって、俺は自然と鳩尾の辺りに力を込めていた。
「……紗世は、今もそいつを愛しているのか」
「はい。彼みたいに素敵な人は、他にいないと思います」
 ああ、本当に、――――初恋は叶わない。
 紗世のかんばせには蕩けるほどに甘い笑みが浮かび、その瞳には相手の男への深い愛情と尊敬がちらつく。その瞬間に俺を襲った、打ちのめされるような感覚を何と呼べばいいだろう。傍にいるのは俺なのに、どこにいるとも知れないその男に敵わないというのは、――――少々、堪えるな。
 悋気が平静をぐらつかせ、俺は紗世の頬に向かって手を伸ばす。覗き込んだ彼女の瞳に、苦々しげに笑う情けない男の顔が映り込んだ。
「君をこんなところで独りにしてるのに?」
「ふふ、……そうですね。でも今は景光さんがいてくださるので、独りじゃないです」
「っ、」
 紗世のずるいところは、こういうところだ、――――ものすごいタイミングで、俺の一番欲しい言葉を持ってきてしまうところ。
「……そう、か」
「それに、いいんです。ずっと好きなまま、独りで生きていくつもりだった私に、この子を授けてくれたから」
 心の底からそう思っているのだと分かる、芯のある声音が俺の鼓膜を震わせる。なだらかなカーブを描く腹部を見つめながら思い出すのは、午前中に聞いた月村の言葉だった。