「は、……」
 鞄の中に茶封筒はない。微かに受付の人と話した記憶はあるから、最低限のことはしてきたのだろう。我ながら、変なところが真面目で笑えてしまう。力なく唇だけを笑みの形に吊り上げて、私はよろよろと身体を起こした。
 身体中の気力も、精神力も、何もかもが抜け出て空っぽになってしまったみたいだ。『胸にぽっかりと穴が開いたような』という使い古された表現は、手垢が付くまで使い回されるだけの理由があるのだと思い知る。こんなにも今の自分を的確に表現する言葉を、私は他に知らない。
 心臓を突き刺す、途方もない痛み。分かっていたはずだったのに。浅ましくも期待して、裏切られたからって傷付いて、ばかみたいだ。
 私の中の景光さんへの想いは、もはや取り返しのつかない大きさまで育ち切ってしまった。この結末を予感しながらも、目を逸らし続けてきた報いが訪れたのだろう。心の中は荒れ狂っているのに、頭の一部は不気味なぐらいに静まり返り、二つの言葉を繰り返していた。
 ――――今度こそ潮時だ。これ以上二人に迷惑はかけられない。
 ――――何よりも、二人の結婚を見たくない。
「っ……行かなきゃ」
 ここにはもう、いられない。いたくない。
 私は持っていた鞄に適当に服や貴重品などを詰めて、レターセットから一枚の便箋と封筒を引っ張り出した。
 綴るのは今までの感謝と、途中で仕事を放り出してしまうことへの謝罪だけ。契約を破るようないい加減な女だと思ってもらえたらいい。余計な言葉を残せば、彼はきっと気に病んでしまうだろう。彼を愛しているからこそ、一点の曇りもない幸せが彼に降り注いでほしい。その幸せに、私の感傷が割り込むなんてことは許されないのだ。
 溢れた涙が、便箋の端に染みを作る。それを親指で無造作に拭って、私は便箋とこの家の鍵を封筒の中に押し込めた。
「……さようなら、」
 景光さん。
 もう彼に向かって呼ぶこともないであろう名を、誰もいない部屋に向かって呟いた。