「それじゃあたし、レッスンがあるんで」
ロシアン葵ちゃんはバイオリンのケースを抱えなおして、私の横を素通り。
会いにいったのかどうか、なんて確かめるほどでもない。
ロシアン葵ちゃんからは、倭人と同じ柔軟剤が香ってきたから―――
倭人、もう連絡取らないって言ってたのに、
私の知らないところで
二人で会ってたんだね。
どうして…
どうしてよ。
――――
私は落ちたケータイを拾って、そのままエントランスに続く石造りの階段で座り込んでいた。
マンションの住人らしい人が怪訝そうに通りかかったけれど、その気味悪そうな視線も気にならず、冷たい石段に腰を下ろして…
いったいどれぐらい時間が経ったのだろう…
いつの間にか降ってきた雨が肩や髪を濡らす。
傘……持って来てなかったなぁ。
帰らなきゃ……
そう思いつつも重い腰は上がらない。
いつのまにか雨は本降りになっていて、視界をぼんやりと灰色ににじませている。
倭人の家に行かなきゃ……
行って確かめなきゃ。それはほんの少しの希望。
『葵は来てないよ』
そう思うのに、その反面、
なんだか自分がひどく惨めで黒猫に見せる顔がない。帰りたい。とも思う。
だけれど私の足は会いに行くこともできなかったし、帰ることもできず
ただずっとぼんやりと雨の中、灰色の景色だけを見据えていた。



