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わたしの記憶の中のイブキくんは、どちらかというと、ヒーローだったのに。
『もしあいつがこっちに出てきたら、俺が追い払ってやるよ』
小学校低学年のころ。
当時ピアノを習っていたわたしは、自宅から先生の家まで通う道のりにある、大きな一軒家の、大きな犬が天敵だった。
広い庭に放し飼いされていたその犬は、わたしが前を通る度にわざわざ門のそばまでやってきて、柵に体当たりをする勢いで吠えてくる。
隙間だらけの頼りない隔たりに怯えて、なかなか通れずにいたわたしを見かねて、声をかけてきてくれたのがイブキくんだった。
『ほら。なんともなかっただろ?』
その家の前を一緒に通ってくれて、あとに見せた自信に溢れた笑顔を、今でも憶えてる。
初めましてだというのに、ぶっきらぼうな優しさを与えてくれた。
口調はちょっと乱暴だったけど、強くて、頼りがいのある男の子だった。
イブキくんと知り合ったのは、それがきっかけ。
嬉しかったから、次にひとりでいる姿を見かけたとき、勇気を出して声をかけた。
名前を知って、同い歳だと知って、一緒に遊ぶようになった。
お父さんがいなくなって、そのころから男の子の友達が少なかったわたしにとって、イブキくんはすごく新鮮な存在で。
住んでいるところは近かったはずだけれど、学校が違ったのも、特別に思ってしまうひとつの要因だったかもしれない。
共通の友達なんていなくて、周りを気遣うことなく、ふたりの間でだけ関係を築くことができた。
それに。
お母さんが遅くまで働いていて、わたしはいわゆる鍵っ子だったから。
夕方になっても、親が迎えに来るということが一度もなかったイブキくんと一緒にいるのが、すごく居心地がよかったんだ。
近所を探検するとき、わたしが怯む場所ではいつだって、力強く手を引いてくれた。
そんなに、わたしと大差のない大きさだったはずの、手のひら。
それが今では、……こんなに易々と、わたしの手首は包み込まれてしまうんだ。
イブキくんに連れられて廊下を歩く間、再びフードを被せられ狭まった視界に、繋がった手元を収めながらそんなことを思った。
大きくて、指が長くスラッとしていて、……男のひとの手、って感じ。
でも、……飛鷹より少し、ゴツゴツしてる。
わたしは、つい先日、必死に記憶と身体に刻み込んだばかりの手の感触を思い出した。
……結局、多々良くんとのこと、うやむやになってしまった。
どこまでが本当で、どこからが森下くんの嘘だったんだろう。
知りたいけれど、今はそれどころじゃないんだ。
こういった自分本位の気持ちを優先してしまったせいで、本条くんが、これから危ない目に合わされてしまうかもしれない。
……きっと、本条くんは迎えに来てくれる。
さっきの電話越しに、わたしの声が届いていたとしても、だ。
なんとくそう思う。
こんなことになるはずじゃなかったのに。
本当に、……なんてことしちゃったんだろう……。
やまない自己嫌悪が、わたしの心を鉛のように重たくした。


