「槙野だったら、何味にする?」

家に着いて、鞄は玄関に放り出したまま、サブバッグだけを持ってお風呂の脱衣所に向かった。
リビングから「帰ってきたのー?」って母さんの声がする。僕は返事をしなかった。

サブバッグからジャージのズボンを出して、洗面器にお湯を張って、洗濯洗剤を適当に入れた。
洗濯機に入れる前に手洗いで少しくらいペンキを取っていないと、母さんがすごく嫌な顔をすると思った。

完全に渇いてしまったペンキは全然取れない。どうやったら取れるのか、僕には分からない。ジャージの布を合わせて何回かゴシゴシと強めに擦り合わせてみたけれど、お湯が少し色づくくらいで全然落ちなかった。
僕は諦めて、洗面器に新しいお湯を張って、「すすぎ」をしてから、そのまま洗濯機に放り込んだ。他の物と一緒に洗濯して、色移りしてしまったらそれこそきつく叱られるだろうから。
また適当に洗濯洗剤と柔軟剤を入れて、点滅している数字を「1」にして、スタートボタンを押した。「1」は「自動」と書いてある。自動を選んでいれば、何となく間違うことは無いだろうと思った。

玄関に放り出したままの鞄を取って、僕はリビングのドアを開けた。

「何よ、ただいまも言わないで。」

母さんは夕飯のおかずをダイニングテーブルに並べながら、僕をチラッと見た。

「ジャージ汚しちゃったから洗ってた。洗濯機回してるよ。」

「汚れ、取れたの?」

「取れない。」

「取れないまま入れるくらいなら呼びなさいよ。」

自分で洗っても洗わなくても叱られる。理不尽な世の中だ。

「お風呂入ってくる。」

鞄を持って突っ立ったままだった僕は言って、またリビングを出た。

自分の部屋に鞄を置きに階段をのぼり始めている僕に、リビングから母さんが「もうご飯出来てるのに!」と大きな声で言ったけれど、聞こえないふりをした。

全部が空虚に聞こえる。一度耳に届いた誰かの言葉達はそのまますり抜けて、僕の中には何も残らない。何も感じない。

ヤヨちゃんが言った、「槙野のことだけは絶対に好きにならない。」という言葉だけが一番確かで、この世で一番正しいんだと思った。