この所すっかり秋めいて、朝はなかなかベッドから出られない。

「ふぁ……眠い……」

重い身体を無理矢理動かしてカーテンを開けてみるものの、外はまだ薄暗い。せめて日差しがあれば少しは目が覚めるのにと思いつつ、雛子は欠伸をしながら窓を開け換気をする。

「さっむ……」

この時期は昼夜の温度差が大きく、昼間はまだ暑いのに朝方は涼しい。澄んだ空気を肺一杯に吸い込むと、少しだけ身体が目覚めるような気がした。雛子はスマホに保存してある勤務表で、本日の勤務者を確認する。

「あ、今日桜井さんと勤務一緒だ」

下半期に入り、雛子も独り立ちを求められるようになっていた。

今まではプリセプターの恭平と毎日同じシフトをこなしていたものの、一人のスタッフとしてカウントされれば自ずと勤務が合わない日が出てくるようになる。

課題を進める時も、相談事があればまず恭平の勤務をチェックしてタイムスケジュールを組む必要があるのは些か面倒臭い。

「一緒に日勤……嬉しいなぁ」

空きっ腹に常温のエナジードリンクを流し込みながら呟いた独り言に、雛子ははたと眉根を寄せた。

「え、嬉しい? って……なに?」



『キスよ、キス! 桜井さんの! 雛子はそれで息を吹き返したのよ、白雪姫みたいにね?』



唐突に夏帆の言葉が蘇り、雛子は慌てて首を振った。


「な、何考えてんの私!? 人工呼吸よ、そう、人工呼吸だから! それに覚えてる訳でもないしっ! ノーカン!」



菓子パンを咀嚼しつつ、雛子は着替えて朝の情報番組を聞き流す。とにかく海での一件についてを思考から排除しようと躍起になる。


あの日以来、どうにも恭平を意識してしまう時がある。もちろん悲しいほどに、恭平の態度は今までと変わらないのだが──── 。

「よしっ、今日も頑張る! 雑念は敵!」

雛子は気合を入れるため、両手で頬を軽く二、三度叩く。

「行ってきます」

シューズクローゼットの上に置かれた一つのサッカーボールが、雛子の出勤を静かに見送った。









やがて時刻は日勤始業時間となり、雛子達日勤者はステーションの中心にあるテーブルの周りに集まる。


「下半期に入ったし、これから一人ずつ順番に面談やるわね。申し送りが終わったら、そうね……桜井君から私のところに来てちょうだい」

「……うっす」


朝礼にて師長から面談についての説明が行われる。

指名された恭平は、普段以上にやる気のなさそうな気のない返事をする。

(あれ? なんか桜井さん、元気ないな……?)

一見いつも通りのようだが、よく見ると普段に輪をかけて覇気がないように思えた。

やがて夜勤からの申し送りが終わると、夜勤者はパソコン前に座り、日勤者は各受け持ちのところへと散らばっていく。

恭平は何を考えているか分からない表情のまま、面談室へと消えていった。

「桜井さん、いつも以上にテンション低くないですか?」

「お、さすがプリ子。よく気付いたわね?」

「ほら、もうすぐ『あれ』だから……」

そんな恭平の姿を見て、他のスタッフ達がひそひそと言葉を交わす。

「『あれ』? って、何ですか?」

雛子は『あれ』が何を指すのか分からず、首を傾げて訊ねた。

「ああ、雨ちゃんは知らないか。桜井君、もうすぐ誕生日なのよ」

恭平より上の学年のスタッフが答える。

「誰が最初に言い出したのか覚えてないんだけど……入職当時から、誕生日が近付くと何故かぼんやりしてることが多いの。理由を聞いてものらりくらりはぐらかされるのよね。大学時代から同期の清瀬さんなら知ってるかもしれないけど」

(真理亜さんなら……)

「やだ知らないの? あの二人、大学入る前から知り合いらしいよ。清瀬さんが言ってたから間違いない。仕事もできるし顔も良いしお似合いよねぇ」

もしかして付き合ってるんじゃない? と先輩達は色めきたつ。

「そ、そうなんですか……?」

大学の同期とは知っていたが、それ以上に長い付き合いとは初耳だった。『付き合っているかもしれない』、その可能性に、雛子は何故か胸がざわつく。

(何でだろう……確かにお似合いの二人だし……仮に付き合っていたとして、私がそんなにもやもやすることある……?)

そんなことを思う自分に、思わず首を傾げた。

「っ……?」

「どうした雨ちゃん、難しい顔して?」

訝しむ同僚達に「なんでもないです」と精一杯の虚勢を張って、雛子は受け持ちの部屋を回ることにする。

しかし頭の中は、常に恭平の誕生日の事で一杯だった。








(プレゼントとか、あげない方が良いのかな……?)


いくら恭平が自身の誕生日を喜んでいなくとも、プリセプティとして知ってしまった以上、日頃の感謝も込めて何かしらプレゼントしたくなるというものだ。

しかし誕生日に何かトラウマがあるとすれば、余計なことはしない方が恭平のためでもあり、彼と良好な関係を保ちたい自分のためでもある。

(やっぱり真理亜さんに聞く……? でもなぁ……)

スラリと背の高い美男美女の二人。十代の頃からの親密な間柄。

付き合っているかどうかの前に、自分には付け入る隙がない特別な関係。

(何となく、聞きたくない……)

雛子のなけなしの意地が、真理亜に恭平について訊ねることを拒否している。

「んぁ〜もう……。あっ」

そこで雛子はようやく、もう一人有力な情報を持っていそうな人物に思い至る。

恭平と数年の付き合いがあり、恭平に特別好意を抱いており、かつ恋愛経験が豊富そうな彼女。

都合良くこのタイミングで入院している篠原舞の病室に、雛子は急いだ。







「……」

「……」


いつもならあれやこれやと不平不満を並べ立てる舞が、今日はめっぽう静かだ。検温を行いあらかた体調についての質問が終わると、二人にしては珍しく沈黙の時間が訪れる。

(な、なんかものすごく話しかけにくい……)

恭平について聞こうとついいつも通り訪室したものの、舞の気まずそうな表情を見て雛子は海以来の再会である事を思い出した。

明け方に入院してきた彼女は、発熱のピークであり普段なら機嫌悪く当たり散らす頃だというのに、雛子が受け持ちと知ってか本日まだ一度もナースコールを押していない。

「……悪かったわね。この前」

舞が突然、謝罪の言葉を述べた。雛子よりむしろ彼女の方が、この空気に耐え難かったのだろう。

「篠原さん……」

舞にも罪悪感というものがあるのか。

傍若無人なばかりと思っていたが、人間一つや二つ可愛いところもあるものだ。

「いえ、もう過ぎたことですから……それに、皆さんがいてくれて助かりましたし」

雛子は笑って見せた。常日頃から恭平と一緒にいる雛子をよく思っていなかったのだろうというのは、後日行き着いた結論だった。

嫉妬心で命まで脅かされてはたまったものじゃないが、だからと言って舞の乙女心が全く理解できないわけでもない。


それに人間、いつかは皆死ぬのだ。


生は不平等だが、死は生き物全てにとっていつも平等だ。


現に真理亜への訳の分からぬ嫉妬で胸をざわつかせている自分が、舞のことをとやかく言う資格はないと思った。



「本当に、お人好しなのね……」


舞は俯いたまま、少しだけ非難するようにそう言った。しかしその言葉に反し、髪の隙間から覗く表情はどこか悔しそうに歪められていた。


「あっ! そんなことより聞きたいことがあるんです!」


雛子は気まずい雰囲気を払拭するため、ここぞとばかりに恭平の誕生日について質問を投げかけた。








「……なるほどね、で、あんたは恭平の誕生日を少しでもお祝いしたい、と」

舞は最初、雛子の話に呆気にとられていたものの、我に返ると迷うことなく首を横に振った。



「断言する。止めときなさい」


きっぱりとそう述べる舞に、雛子は淡い期待を打ち砕かれて項垂れる。

「や、やっぱりプレゼントすら買わない方が良いですか……?」

「ええ、悪いこと言わないからスルーすることね。まぁ当日、どうせ恭平は休みだろうけど」

「えっ?」

雛子はその言葉に、慌てて手持ちの勤務表を確認する。たしかに誕生日当日、恭平は有給の印が付けられていた。

「うわさすが篠原さん……だてに桜井さんのストーカーやってませんね……」

「……あんた言うようになったわねぇ?」

思わず本音が漏れる雛子に、舞はこめかみをひくつかせる。

「恭平、毎年自分の誕生日は夜勤明けか有給なのよ。前に『その日はどうやって過ごしてるの?』って聞いてみたら、『ケーキ買って一人で食ってる』ですって。束縛彼女がいるわけでもなさそうなのに、謎なのよねぇ」

(自分用にケーキは買うのに人から祝われるのは嫌なのか……)

雛子の中で益々疑問が湧く。

「まぁ、私も過去にはあれこれお祝いしようと思ったんだけどね。あれは誕生日っていうよりもはやお通夜よ。触らぬ神に祟りなし」

「お通夜……」

メンタフの舞にそこまで言わしめるとは、ただごとではない。どうしたものかと雛子は暫し考えを巡らせる。


「……ねぇ、私も言っておきたいことがあるんだけど」

雛子が黙ったタイミングを見計らって、今度は舞がそう切り出す。




「アンタは信じないかもしれないけど……伝えておきたいことがあるの」


「? 伝えておきたいこと、ですか?」



思い詰めたような口調に、雛子は測定したバイタルをパソコンに打ち込みながら言葉の続きを待つ。


「海でのこと、なんだけど……」


「ああ、だからそのことならもう」


「黙って聞いて」


再び話を蒸し返す舞に笑いながら返そうとするも、舞は真剣な表情でそれを制した。



「私、」



またしばらくの沈黙の後、舞が重い口を開く。


「……あの女に、けしかけられたのよ」


「えっ?」


予想外の言葉に、雛子はその言葉の意味を逡巡した。


「……あの女、って? けしかけられたって、何ですか?」


何の話だ。全くもってピンと来ない言葉に、雛子は混乱しながらも続きを促す。


「あの女よっ……」


舞は顔を上げた。その瞳が、雛子の瞳とかち合う。


その表情は、どこか意を決した顔に見えた。




「清瀬真理亜よっ……」