「寺島先生は、いいひとなんでしょうね」

褒められてないな、と先生はへろへろ笑う。

「褒めてますよ。寺島先生は、いいひとです」

寺島先生の前任者は、愛想がよくイケメンで、患者さんからはとても人気があった。
けれど、「酒を飲まないと腹を割って話せない」人で、「無礼講」と「酔った勢い」を振りかざし、触れられたくないことにズカズカ踏み込む人だった。
彼と酒席を共にした人間はみんな、その態度に閉口していた。

当然というべきか、奥さんはまだ幼い娘さんを連れて実家に帰ってしまい、その妻子を追いかけて彼もまた引っ越して行った。
寺島先生は、酒乱でないというだけでも、前任者よりはるかに優良だ。

私はトイレ脇にある自動販売機で、コーンスープを買った。
小さな固い缶は少し熱いくらいで、両手と両頬を交互にあたためる。

「紀藤さん」

「はい」

私はうっとりと目をつぶったまま返事をした。

「空の写真展をやってるカフェがあるんですけど、土曜日行きませんか?」

寺島先生は、定期検診のような真面目さで私を誘い続けていた。
問診に答えるように、私も毎度同じ断り文句をお返ししている。

「すみません」

「どうしてもダメですか?」

「本当にすみません」

「そうですか」

このやりとりはすでに、天気の話程度の重さしかなくなっていた。

「食事がダメってわけじゃないんですね」

「どういうことですか?」

「食事は何度も断られたので、何か他に興味あるものなら付き合ってくれるのかなって」

言われてみれば、ここしばらくは食事ではなく、映画やイベントなどに誘われていた。

「申し訳ありませんが、寺島先生と出かける気はありません」

「理由を聞いても?」

風に乗って、ほんのり甘い匂いが届いた。
少し先にクレープの屋台がある。
甘いものより日本酒の方が似合いそうな男性が、クリーム、イチゴ、チョコレートソースと手際よく盛り付けていく。
くるりと巻くと、フリルのドレスみたいなクレープが完成した。
首にかけたタオルで汗を拭っている。

「先生は」

「俺は?」

「とても、いいひとなので」

「ああ、なるほど」

豊かな体温と正しい鼓動の持ち主だと思う。
そういうひとと向き合うには、こちらも同じだけ清廉なエネルギーが必要だ。
放り出しても構わない相手、放り出されても心が痛まない相手でないと、自由にはなれない。
誰かを好きになることと、寝ることと、人生を共にすることは、本来別々のことなのだ。

「私なんかに関わって、なにも先生が評判を落とすことないです」

手の中で転がすコーンスープは、もうずいぶんぬるくなっている。
先生は何も考えていない顔で(でも絶対にいろいろと考えて)、そうですね、と言った。
ビールの缶を傾けて、中身がすでに空だと気づくと、自動販売機横の回収ボックスに入れる。
喧騒の中でも、そのカコンという音ははっきりと聞こえた。