「このお水、あまい香りがする」

光に透かすように、おばあちゃんはお冷やグラスを持ち上げた。

「桃、みたいですね。味は普通のお水だけど」

「今はお水もこんなに違うのねぇ」

「私もはじめて飲みました。おいしい」

ぽつりぽつりと会話できるようになっていた。
おばあちゃんは「ミエさん」と言って、お孫さんが五人いるらしい。
私が十九歳だと答えると、同い年ねぇ、と笑っていた。

日陰を抜ける風は心地よく、通りの向こうには雲海のような桜も見える。

「お待たせいたしました。カフェラテでございます」

「あら! 桜!」

カップが置かれると同時に、おばあちゃんが歓声を上げた。
ラテアートというのか、カフェラテにはちいさなハート型のような模様が散りばめられていた。

「これ、あなたが作ったの?」

「いえ、店長です。私も練習はしたんですけど、なにしろ絵心がなくて」

男性はあかるい笑い声を立てて、首を横に振った。

崩しちゃうのがもったいないわねぇ、と言いながら、口元に泡をつけてカフェラテを飲んでいたミエさんの顔を、私は今でも覚えている。
カップのデザインも、カフェラテの甘味も、テーブルの端についていた小さな傷さえ覚えている。

「本当に、いい日だこと」

「はい。私も来られてよかったです」

施設の職員さんにはお叱りを受けた。
本来、必ず職員さんが同行するはずなのに、私は勝手にミエさんを連れ回してしまったらしい。

でもミエさんは「楽しかった。ありがとう」と言ってくれた。
なんだか感極まってしまい、結局心に浮かぶ想いの半分も言えなかった。

その時の店員さんが純也だった。
公園近くの大学に通っていて、あのとき四年生だった。

あの日のお礼が言いたいという建前で、私はふたたびカフェに行った。
コーヒーの味が気に入ったのだと言い訳して通った。
本当は、ただ純也に会いたかった。

そんなことに、純也はすぐに気づいていたらしい。

「だって唯衣ちゃん、わかりやすすぎる」

卒論に集中するため、店を辞めるという純也に告白したとき、彼はそう言って笑った。
あの春の日、やはり私は人生の幸運のすべてを使い果たしたのだ。

純也の笑顔を思い出すときは、いつも満開の桜が重なって見える。