雨はとうとう降らなかった。
無駄になった雨傘の先が、ときどき地面をかすめる。
「雨、降りませんでしたね」
風もなく、みっしりと水分の詰まった空気は、いつにも増して重い。
「そうですね」
「先生、傘は?」
「車に積んでます」
雨が降ってくれたら、と願うほどに、会話の糸口が見つからなかった。
先生が手を差し伸べてくれなければ、私は五分さえ持て余すのだ。
星明かりもない低い空を背景に、まだ明かりの灯ったオフィスの窓が並んでいた。
「それ、ロッカーについてたやつですか?」
先生が私の手を指差して言った。
さっきはずしたばかりのネームプレートを、ずっと手の中で転がしていた。
「あ、はい。そうです。何も残さない方がいいと思って、持ってきました」
長年使ったロッカーなのに、ネームプレートをはずしただけで、急に他人の顔になった。
私の存在を示すものは何もない。
すぐに誰も話題にしなくなる。
最初からいなかったみたいに。
先生は点滅する信号を見て足を止めた。
「勤務表見るとき、一番先に紀藤さんの欄を見るんです。四月分が出たときも一回探して、『ああ、もう名前ないのか』って」
「すぐに慣れます」
「そうでしょうね」
先生はあっさりとうなずいた。
「でも、俺は明日からも毎日この道を通ります。あのコーヒーショップの前も蕎麦屋の前も。通るたび、紀藤さんのことを思い出します」
何度も通ったコーヒーショップは、ひときわ明るい光を通りにこぼしている。
暗がりのこちらからは、からんとした店内がよく見える。
「これから俺は誰か他の人を好きになるかもしれないし、もしかしたら結婚して、子どもが産まれるかもしれない。でも何十年経っても、紀藤さんのことは忘れないですよ」
「そんなことないです」
「いえ、忘れません」
信号が青になり、先生は歩き出した。
一歩遅れて私もつづく。
「多分、バームクーヘン見るたびにちょっと思い出す」
先生はバームクーヘンの入った袋をカラカラと振ってみせた。
「バームクーヘンですか?」
怪訝な顔で聞き返すと、先生はきっぱりと言い切った。
「そういうものでしょ、記憶って。どうでもいいことほど、よく覚えてるものです」
純也の使っていたハンドクリームのパッケージ。
蝶結びのやり方が私とは反対だったこと。
初めて会った日、スロープを塞いでいた車の色。
「だから今は胸が痛いけど、何もかも全部を悲しいだけにしちゃったら、もったいないじゃないですか」
いろんな感情をない交ぜにした笑顔は、たくさん見てきたものだった。
やっといつもの先生に会えたような気がする。
「先生は強いですね」
「そんなことないです。今、結構泣きそうなので」
純也は誰かと生活を共にできないひとだった。
でも、誰も愛せないひとではなかった。
茄子を切るとき、ガムシロップを買うとき、ほんの少しだけ、残り香のように私を思い出してくれているのだろうか。
「私も、ミニトマト見たら、先生のこと思い出すと思います」
「それはだいぶ頻度高いですね」
無駄になった雨傘の先が、ときどき地面をかすめる。
「雨、降りませんでしたね」
風もなく、みっしりと水分の詰まった空気は、いつにも増して重い。
「そうですね」
「先生、傘は?」
「車に積んでます」
雨が降ってくれたら、と願うほどに、会話の糸口が見つからなかった。
先生が手を差し伸べてくれなければ、私は五分さえ持て余すのだ。
星明かりもない低い空を背景に、まだ明かりの灯ったオフィスの窓が並んでいた。
「それ、ロッカーについてたやつですか?」
先生が私の手を指差して言った。
さっきはずしたばかりのネームプレートを、ずっと手の中で転がしていた。
「あ、はい。そうです。何も残さない方がいいと思って、持ってきました」
長年使ったロッカーなのに、ネームプレートをはずしただけで、急に他人の顔になった。
私の存在を示すものは何もない。
すぐに誰も話題にしなくなる。
最初からいなかったみたいに。
先生は点滅する信号を見て足を止めた。
「勤務表見るとき、一番先に紀藤さんの欄を見るんです。四月分が出たときも一回探して、『ああ、もう名前ないのか』って」
「すぐに慣れます」
「そうでしょうね」
先生はあっさりとうなずいた。
「でも、俺は明日からも毎日この道を通ります。あのコーヒーショップの前も蕎麦屋の前も。通るたび、紀藤さんのことを思い出します」
何度も通ったコーヒーショップは、ひときわ明るい光を通りにこぼしている。
暗がりのこちらからは、からんとした店内がよく見える。
「これから俺は誰か他の人を好きになるかもしれないし、もしかしたら結婚して、子どもが産まれるかもしれない。でも何十年経っても、紀藤さんのことは忘れないですよ」
「そんなことないです」
「いえ、忘れません」
信号が青になり、先生は歩き出した。
一歩遅れて私もつづく。
「多分、バームクーヘン見るたびにちょっと思い出す」
先生はバームクーヘンの入った袋をカラカラと振ってみせた。
「バームクーヘンですか?」
怪訝な顔で聞き返すと、先生はきっぱりと言い切った。
「そういうものでしょ、記憶って。どうでもいいことほど、よく覚えてるものです」
純也の使っていたハンドクリームのパッケージ。
蝶結びのやり方が私とは反対だったこと。
初めて会った日、スロープを塞いでいた車の色。
「だから今は胸が痛いけど、何もかも全部を悲しいだけにしちゃったら、もったいないじゃないですか」
いろんな感情をない交ぜにした笑顔は、たくさん見てきたものだった。
やっといつもの先生に会えたような気がする。
「先生は強いですね」
「そんなことないです。今、結構泣きそうなので」
純也は誰かと生活を共にできないひとだった。
でも、誰も愛せないひとではなかった。
茄子を切るとき、ガムシロップを買うとき、ほんの少しだけ、残り香のように私を思い出してくれているのだろうか。
「私も、ミニトマト見たら、先生のこと思い出すと思います」
「それはだいぶ頻度高いですね」