雨催(あまもよ)い”というらしい。
三月三十一日は重たい曇り空が広がっていて、傘を持ち歩く人が多かった。
降りそうで降らない天気は、不調を呼ぶらしく、患者さんの中にも頭痛や古傷の痛みを訴える人もいた。

後ろ向きな退職をする私にとっても、もちろん晴れがましい日ではない。
院長への挨拶もごく形式的。
華々しく送られるわけでも、泣いて別れを惜しまれるわけでもなく、あっさりと一日が終わった。

「お疲れさまです」

寺島先生が休憩室にやってきたのは、私がカップや本などの私物をまとめ終えたタイミングだった。

「お疲れさまです。寺島先生もよかったら食べてください」

ご挨拶のために持ってきたバームクーヘンの箱を、先生は覗き込む。
ほとんどの人はすでに帰宅したので、箱の中はだいぶ少なくなっていた。

「何が残ってるんですか? プレーンと、はちみつ、この緑色は?」

「ピスタチオですね」

「じゃあこれ、いただきます」

お土産を選ぶときのような、何の感慨もない声だった。
最近先生はずっとこんな調子で、だけどまさか、私がいなくなるのに落ち込んでくれない、などと指摘することもできず、私はとても困っている。

先生は冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取り出す。
部屋の中には、水が喉を通る音だけが聞こえていた。

何か言わなければと気持ちは焦っているのに、私はバッグの持ち手を掴んだまま身動きひとつできなかった。
そのうちに先生は、ペットボトルを冷蔵庫に戻して、ロッカーの方へ回る。
カーテンが引かれる音がして、着替えている気配がした。

私はもう一度バッグの中を確認して、荷物をまとめ直した。
何か他にすることはないかと探しても、ほんのひと欠片の仕事も残っていない。
必要もなくバームクーヘンを整頓しながら、途方に暮れていた。
ロッカーの閉まる音がして、続いてカーテンが開けられる。
見慣れたリュックを背負って、寺島先生は休憩室のドアを開けた。

「お先に失礼します」

頭を下げたのか、うなだれたのか、わからないくらい、私はくたりと下を向いた。

「あ、はい。……お疲れ様でした」

先生は一歩外に出て、そこで足を止めた。
迷いを含むように、ゆっくりとふり返る。

「すみません。意地悪しすぎました。送って行きますから、一緒に帰りましょう」