「先生が使ったらいいのに」

「二本もいらないですから」

職場が見えてきて、私は決断を迫られる。

「じゃあ、ゲルインク」

「はい。どうぞ」

紺色のペンは、サラサラと心地よく手に馴染む。

「ありがとうございます」

「いいえ。たいしたものじゃないんで」

「でも高そう」

「どうせ値段書いてあるから言っちゃいますけど、二百五十円です」

先生は笑って、もう一本のペンをリュックにしまう。

「だったら、私が持ってる中で一番高級です」

チラチラ降りだした雪で濡れないように、私もペンをバッグの内ポケットに入れた。

「先生」

「はい?」

従業員出入口前の段差は少し高い。
上ると、先生と目線が同じ高さになった。
先生の睫毛に、雪のひとひらが降りている。

「本当にありがとうございます」

先生はなぜか緊張したように、イイエ、ホントウニタイシタモノジャ……、と言う。
私は笑って灰色のドアを開けた。

クリスマスイブなのに、と言いながら、何人もの患者さんが治療やメンテナンスをして帰って行った。
家族と過ごす人、恋人と過ごす人、クリスマスなどというイベントには関わりのない人。

どことなく浮き足立って帰る同僚を見送って、私はいつもと変わらない足取りで職場を出る。
小さい頃は、ホワイトクリスマスなんて当たり前だったけれど、昨今は温暖化の影響でアスファルトを冷たい風が抜けるばかり。
雪掻きしなくていいから楽だな、と情緒のないことを考える。

「紀藤さん、お疲れ様です!」

すぐ横を寺島先生が駆け抜けた。
後れ毛が、先生を追うように舞う。

「お疲れ様です。お急ぎですね」

「はい。今日はこれから約束があって。じゃあ、また明日!」

見慣れたリュックが遠ざかっていく。
と、数十m先で立ち止まり、戻ってきた。

「……どうかしました?」

私は少し首をかしげて尋ねる。

「『約束』って、姪っ子ですから」

私はぽかんと、先生の顔を見上げた。

「紀藤さん、今、絶対勘違いしたでしょ?」

私は二、三度まばたきをくり返す。

「勘違い……してないです」

「え! なんで?」

「だって先生は、彼女がいるのに他の女と朝ごはん食べたりしないでしょう」

言い訳なんて律儀ですね、と笑うと、先生は居心地悪そうな顔をした。
それから表情を緩める。

「ペン、使ってくれてましたね」

胸ポケットには、今も紺色のペンがほかほかと刺さっている。
コートで見えないその上に、そっと手を重ねた。

「だって、ペンなので」

先生は満足そうに笑って、そして慌てて腕時計を確認する。

「すみません、紀藤さん。また明日!」

今度こそ走り去った背中に、ちらちらと雪が降りかかる。
積もりそうにもない雪は、地面に吸い込まれるように溶けた。

バスに揺られるのは二十分間。
私の住んでいる場所は、コンビニもスーパーも遠く、便利な場所ではない。
バス通りをそれると人通りも少なくなり、住宅街がずっと続く。
それぞれの灯りの下では、今まさにパーティーが行われているのかもしれない。

築二十三年の1Kは冷えきって、窓は結露で濡れている。
純也の住むマンションと私の職場の中間にある、それだけで選んだアパートだった。

「引っ越そうかな」

その考えは、通り雨のようにやってきては去っていく。
何度も何度も。