平日午後の美術館は、こちらが気後れするほどに閑散としていた。
受付も暇そうで、最初の部屋にはご夫婦が一組と、メモを取っている学生がひとりいるだけだった。
人が少ないせいかエアコンの効きが強くて、二の腕が冷たい。

人の息づかいが感じられるものが好きだ。
お習字にさえ通っていなかった私には、鑑賞する素養はないけれど、描かれた線の向こうに人の気配は感じ取れる。
絵でも刺繍でも文字でも、気持ちひとつで歪んでしまいそうな、不安定なものがいい。

声を発することさえためらわれるので、私も先生も何も話さなかった。
ゆったりと絵を見る先生が何を考えているのか、推し量ることはできない。

水墨画は大きく白、黒、灰色の三色で描かれている。
一見すると灰色に塗りつぶされている花びらも、ラインはふわりと滲ませてあり、やわらかそうに見える。
きっとこの花はピンク色だ。

「新川さん、お子さんたち連れて来なくて正解かもしれませんね」

ふたつめの部屋には誰もおらず、先生は声をひそめて言った。
思い出し笑いを飲み込もうとしている。

「子どものエネルギーって、ものすごいですよね」

黙って座っているだけでも、こちらのエネルギーを吸い取るほどの熱量を発する。
これほど広い空間に連れてきたら、走り回りたくなるだろう。

「俺も身に覚えあります。小学生のときって、今なら考えられないくらい失礼なことを、平気でやってましたね」

「先生も?」

「はい。友達の家に窓から入って怒られました」

私だって、出されたご飯を残したり、家出ごっこをしたり、迷惑をかけてきたはずなのに。

「子どもがいる生活って、慣れるんでしょうか」

先生の視線を感じたけれど、私は目の前の掛軸から目を離さなかった。

「そりゃ慣れるでしょ」

事も無げに言う。

「噛み合わせだってそうじゃないですか。最初は違和感あっても、慣れるでしょう」

治療をしたあと、何度噛み合わせを調整しても、違和感を訴えつづける人はいる。
あまり削っても噛み合わせのバランスが悪くなるので、ただ要求を受け入れればいいという問題でもない。
それでもしばらくして「よくなった」と言ってもらえるのは、その噛み合わせに慣れるからだ。