『紀藤さん、今夜俺と食事に行きませんか』

寺島先生に声をかけられた時、私はひっそり身構えた。
あれは今日、いやもうすでに昨日の午後のこと。
まるで、表面張力でギリギリ保っている水面に、余計なひと滴を落とすような声だと思った。

私は振り返らず、自動ドアの向こうにいる業者の男に手を振った。
歯科金属などを扱っていることと関係あるのか、いつも強いミントタブレットの匂いをさせている男だ。

そのミントタブレットの姿が見えなくなって、私は仕方なく後ろを振り返った。
待合室に患者さんの姿はなく、受付の七尾さんも席をはずしていて、あの場には私と、寺島先生しかいなかった。

『すみません。今夜は予定があります』

先生が受付のパソコン横に腰かけたので、目線がほとんど同じ高さになった。
ガラスブロックを通して差し込む午後の光は、待合室を明るく清潔に見せている。
先生の茶色がかった瞳にも、白銀色の光が差していた。

専門学校を卒業してから三十歳を迎える今年まで、ずっと同じ歯科医院で働く私と違い、寺島先生は半年前に歯科医師としてやってきた。
年齢も先生の方がひとつ下なので、いつもは慇懃な態度であるのに、一重の目は何らかの意志を持ってそこにあった。

『どうしてもダメですか?』

先生の大きな手の中で、カルテのファイルがトントンと鳴る。

『はい』

迷う素振りもなくそう答えても、先生はまだ立ち上がろうとしない。

『どうしてもダメです』

ハッキリと拒否して、ようやく先生はひとつうなずいて去って行った。

ーーあれは、何だったのだろう。

男が寝返りをうって、寝ぼけながら私を抱き寄せた。
耳元にミントの吐息がかかり、まもなくして寝息に変わった。
ふたたび寝入るのを待って、私は男の腕を抜け出て背中を向ける。

ベッドサイドの時計は三時四十五分を表示している。
「3」と「4」の間に明滅する「:」見つめ、点滅を数えた。

1、2、3、4、5、6、……

あれは何だったのだろう。

41、42、43、44、45、46、……

バスの始発まで、あと二時間。