蕎麦茶を飲み干した先生は、口元を拭いながら、

「ごちそうさまでしたー」

と、おざなりに言う。

無意識に近いとは言え、こういう場で口に出すひとはめずらしい。
ひとりで食事することが増えると、いつの間にかあいさつはしなくなるものだ。

純也も言わないひとだった。
味見の流れでそのまま食事に入り、もう少しピーナッツバターを加えてみたらどうかな、などと、あれこれ研究を続けながら食べる。
食事は料理の一環で、自分だけの世界だった。

「先生」

「はい?」

「先生は、ひとりで食事するときも、食前食後の挨拶ってするんですか?」

先生が口元をにやにや緩ませるのを見て、私はすばやく不機嫌になる。

「なんですか?」

「はじめて紀藤さんが興味らしい興味を示したなって」

「そんなんじゃありません。そろそろ時間ですよ」

私ははっきりと眉間に皺を寄せ、スマホ画面で時間を確認する。

「たぶん、ひとりでも言ってますね。掛け声みたいなものだから」

聞いておきながら、どうでもいいことだったな、と思う。

「掛け声かけると、さっと食べてさっとエネルギーにできそうじゃないですか」

「食事はただのエネルギー摂取ですか?」

「俺はグルメじゃないので、そこそこうまくてそこそこ量があれば、それでいいです」

ストローを差しただけのコーラを見つめ、私は「そこそこ……」とつぶやいいてみる。

別れを切り出すと、純也は

『理由を聞いてもいい?』

としずかに言った。
せっかく作ってくれた朝食に、私はひと口も手をつけなかった。
栗のご飯も、自家製味噌で漬け焼きした甘鯛も、黙って全部片付けてくれた。
さっぱりとしたテーブルの上に、丁寧に淹れたコーヒーからいい香りが立ち上る。
その湯気も上がらなくなった頃のことだった。

『他に好きなひとができたの』

添えられたガムシロップに向かって嘘をついた。
本当の理由は言えなかった。
私は望むものが多すぎたのだ。
もっと無心に純也を愛せたら、傷つけることもなかったのに。

『もう、そのひとと付き合ってるの?』

『うん』

『やさしいひと?』

『うん』

『そっか。わかった』

そっと盗み見ると、純也は椅子の背もたれに背中をあずけ、私から視線を逸らしていた。
私の嘘にも、本当の理由にも、気づいていたのかもしれない。

『わかったよ』

この恋は終わるべくして終わったのだ。
唐突にそれがわかった。
そのくらい、妙にしっくりする別れだった。
すごろくの「あがり」。
迷路の「ゴール」。

コーヒー淹れ直すね、と背けた頬に、伝う涙が見えたような気がする。

純也の部屋に、私の残したものは何もない。
最初からずっと、純也ひとりだったみたいに。

朝食が食べられなくなったのは、あの日からだ。
無理に食べても吐いてしまう。
克服しようと思うほど、必要なものでもなかった。

私は目を閉じて、氷と炭酸の音に耳を傾けた。
そこそこ。
そこそこ。
その響きは、さわやかでかわいらしくて、いいな、と思う。