寺島先生は駅前にあるカフェに入った。
突然立ち止まった私に、先生は自動ドアの向こうで振り返って、少し驚いた表情をした。
どこの誰から夜を誘われても睫毛一本動かないのに、たかだかカフェのドアを前に、私は脚がすくんでいた。
誘われたら断れるけれど、誘いもしないから、断るタイミングを逃がした。
自動ドアが閉じかけては開いて、私を急かす。
カウンターの内側から、店員さんも視線を寄越している。
「そこに立ってると、迷惑になりますよ」
先生はためらいながら私の手に触れ、意志を込めて引いた。
ふりほどく余力はなかった。
体温の高い大きな手に導かれるまま、私は店内に足を踏み入れる。
背後で自動ドアが閉まった。
駅前を通るバスやタクシーの音が遠退き、落ち着いたクラシック音楽が耳に入ってくる。
混んでいることも多いカフェなのに、今はとても静かで、カップがソーサーに戻される音も、ひとつひとつはっきり聞こえた。
「モーニングセットをバゲットサンドとアイスコーヒーで。……紀藤さんも、ごちそうしますよ」
「いえ……結構です」
「付き合わせたの俺なので、遠慮なく」
「いえ、本当に私は……」
寺島先生は譲らず、仕方なくオレンジジュースを頼んだ。
院長を起こさないよう、こっそりホテルを出てきたというのに、こんな落とし穴があったなんて。
「いただきまーす」
パンは表面をパリパリに焼いてあって、寺島先生がかぶりつくたび皿に破片が落ちた。
「先生、朝からよく食べますね」
「紀藤さん、朝食はもう済ませたんですか?」
「朝はいつも食べないので」
可能なら、食事なんて錠剤で済ませたい。
みんながそうすれば、虫歯になる人はかなり減って、私や先生の仕事だって楽になる。
「それで昼までもちます?」
親指についたソースを先生がペロリと舐めた。
私は黙って紙ナプキンを手渡す。
「あ、すみません」
指先と口元を拭って、寺島先生は私の返答をうながすように見つめる。
「もうずっと、こんな生活ですから」
私の乱れた食生活を話すと、たいていの場合は説教される。
きっと今も、ちゃんと食べたほうがいいですよ、と言われると思って、わかりました、と嘘をつく準備をしていた。
「紀藤さんの腹が鳴ったら、それはそれでなんかいいですね」
寺島先生は笑ってサンドウィッチを食べる。
私なら食べ切れない大きなそれは、ほんの数口でなくなった。
「ホタルが肉食って知ってました?」
皿に落ちたベーコンをつまみ上げて寺島先生は言った。
「そうなんですか?」
「カワニナっていう貝の仲間を餌にしてるらしいです。身体が光るって、エネルギー使いそうですもんね」
汗をかいたグラスを見ながら私はうなずいた。
オレンジジュースは、底にいくにしたがって色が濃くなっている。
お店と寺島先生に対する礼儀だけで頼んだものだ。
飲みたいという気持ちはまったく湧かない。
「俺も頑張ったら、指一本くらい光らないかな。そうしたら治療する時も、かなり便利だと思うんですよね」
長い指の先を動かして先生が言う。
私はその指が、繊細に動く様を思い出していた。
「そうですね。先生、ぜひ頑張ってください」
私は紙袋を破き、中から細いストローを取り出す。
そしてからんと大きくグラスをかき混ぜた。
オレンジ色が、ゆっくりと全体に広がっていく。
「ごちそうさまでしたー」
昨夜のことにも、オレンジジュースに手をつけないことにも、先生はとうとう触れなかった。
突然立ち止まった私に、先生は自動ドアの向こうで振り返って、少し驚いた表情をした。
どこの誰から夜を誘われても睫毛一本動かないのに、たかだかカフェのドアを前に、私は脚がすくんでいた。
誘われたら断れるけれど、誘いもしないから、断るタイミングを逃がした。
自動ドアが閉じかけては開いて、私を急かす。
カウンターの内側から、店員さんも視線を寄越している。
「そこに立ってると、迷惑になりますよ」
先生はためらいながら私の手に触れ、意志を込めて引いた。
ふりほどく余力はなかった。
体温の高い大きな手に導かれるまま、私は店内に足を踏み入れる。
背後で自動ドアが閉まった。
駅前を通るバスやタクシーの音が遠退き、落ち着いたクラシック音楽が耳に入ってくる。
混んでいることも多いカフェなのに、今はとても静かで、カップがソーサーに戻される音も、ひとつひとつはっきり聞こえた。
「モーニングセットをバゲットサンドとアイスコーヒーで。……紀藤さんも、ごちそうしますよ」
「いえ……結構です」
「付き合わせたの俺なので、遠慮なく」
「いえ、本当に私は……」
寺島先生は譲らず、仕方なくオレンジジュースを頼んだ。
院長を起こさないよう、こっそりホテルを出てきたというのに、こんな落とし穴があったなんて。
「いただきまーす」
パンは表面をパリパリに焼いてあって、寺島先生がかぶりつくたび皿に破片が落ちた。
「先生、朝からよく食べますね」
「紀藤さん、朝食はもう済ませたんですか?」
「朝はいつも食べないので」
可能なら、食事なんて錠剤で済ませたい。
みんながそうすれば、虫歯になる人はかなり減って、私や先生の仕事だって楽になる。
「それで昼までもちます?」
親指についたソースを先生がペロリと舐めた。
私は黙って紙ナプキンを手渡す。
「あ、すみません」
指先と口元を拭って、寺島先生は私の返答をうながすように見つめる。
「もうずっと、こんな生活ですから」
私の乱れた食生活を話すと、たいていの場合は説教される。
きっと今も、ちゃんと食べたほうがいいですよ、と言われると思って、わかりました、と嘘をつく準備をしていた。
「紀藤さんの腹が鳴ったら、それはそれでなんかいいですね」
寺島先生は笑ってサンドウィッチを食べる。
私なら食べ切れない大きなそれは、ほんの数口でなくなった。
「ホタルが肉食って知ってました?」
皿に落ちたベーコンをつまみ上げて寺島先生は言った。
「そうなんですか?」
「カワニナっていう貝の仲間を餌にしてるらしいです。身体が光るって、エネルギー使いそうですもんね」
汗をかいたグラスを見ながら私はうなずいた。
オレンジジュースは、底にいくにしたがって色が濃くなっている。
お店と寺島先生に対する礼儀だけで頼んだものだ。
飲みたいという気持ちはまったく湧かない。
「俺も頑張ったら、指一本くらい光らないかな。そうしたら治療する時も、かなり便利だと思うんですよね」
長い指の先を動かして先生が言う。
私はその指が、繊細に動く様を思い出していた。
「そうですね。先生、ぜひ頑張ってください」
私は紙袋を破き、中から細いストローを取り出す。
そしてからんと大きくグラスをかき混ぜた。
オレンジ色が、ゆっくりと全体に広がっていく。
「ごちそうさまでしたー」
昨夜のことにも、オレンジジュースに手をつけないことにも、先生はとうとう触れなかった。