「ここからは、野村に変わりますね。」

 ニッコリと笑いながら、別のお客さんに向かう黒川さんを、鏡越しに目で追う。
 怖いけど、目が追いかける。

「さ、早瀬さん。今度は僕に仕事させてくださいね」

 柔らかな声とともに、ラベンダーの香りとともに野村さんが、背後に立った。
 鏡越しの彼は、黒川さんとは対照的で、季節違いのひまわりのような笑顔。

「お、お願いします」

 ヘッドスパ専用のスペースに案内されると、薄暗いそこは、気持ちが落ち着く空間になっている。
 それほど大柄ではないけど、大きな手のひらで、頭皮をほぐすマッサージをしていく。
 指先ひとつひとつがわかるように、指の存在を感じる。

「これ、ホホバオイルなんですけど、ベビーマッサージにも使えるようなやつなんで」

 髪に筋を作るたびに、オイルを流し込み、頭皮になじませていく。
 彼の指の動きに集中するように、目を閉じた。

「早瀬さん、やっぱり、お疲れですね」
「そ、そう?」

 そんなセクシーな声で、耳元で話しかけないで欲しい。

「だいぶ、固いですよ。ここが固いってことは、顔の皮膚までつながってますから、お顔の方も……」
「えっ!?」
「フフフ。今度、僕が、マッサージしてあげましょうか。個人的に」

 思わず、閉じていた目を開いてしまった。
 野村さんの目に、捕まった。

「その気になったら、連絡ください」

 ニコリとしながら、名刺を渡された。裏側には、手書きのメアドと電話番号。

「それって……実験台ってこと?」
「プッ」
「え?」
「まぁ、そう思っていただいてもいいですよ。でも、ちょっとは、違うことも想像してほしいんだけどなぁ」

 妖しく笑う野村さん。

 なにそれ。勘違いさせるつもりだろうか? 少し、心が揺れてる自分もいる。
 渡された名刺をじっと見ていた時に、ふっと、視線を感じると、鏡を挟んで反対側で、他のお客さんの髪をいじっている黒川さんと目があった。
 無表情な彼の、冷たい目。

 ――こ、怖い。

「じゃあ、シャンプー台に移動してください」
「あ、は、はい」

 黒川さんの少し力強い指先とは違って、野村さんは力強さに優しい動き。
 でも、どちらも身を任せられる、そんな感じ。

「痒いところはございませんか?」
「……はい」

 まるで、手放すのを嫌がるかのように、優しくタオルドライをしてくれてる気がするのは気のせいか?
 ゆっくりと椅子を戻すと、首に巻いたタオルをはすず。

「では、お席のほうにお戻りください」

 席に戻れば、そこには黒川さんがいつもの笑顔で待っていた。

「野村、あっちのお客さんのほう、頼む」

 冷たい目で野村さんに指示を出す彼。それに挑むような視線で「はい」と答える野村さん。
 この二人の間の妙な空気が気になってしまう。

「さ、仕上げの前のマッサージです」

 頭皮に、スッとするスプレーを何か所かにすると、野村さんのとはまた違うマッサージ。
 そんなに頭小さくはないと思うけど、頭全体を掴まれてるような感じ。
 頭から徐々に首に移ってくる手を熱く感じた。
 この手で、他のところも触れて欲しいと思ってしまう私は、やっぱり、変だろうか?
 ふぅっと、息をつきながら目をあけると、色っぽい表情の黒川さんに気づいてしまった。

 ――な、なんでっ?

 顔が熱くなって、目をそらすと、今度はそこには野村さんがいて、その彼は優しく微笑んでる。

 ――な、なにが起きてるの?

 半分、パニックになりつつも、黒川さんのマッサージに意識が持って行かれそうになる。

「ドライヤーで乾かして、整えますね」

 何度目かの耳元での声に、ドキっとするとともに、身体の奥が熱くなった気がした。
 この人は、ダメだって思ってたのに、どうしたって欲しくなるのは、なぜだろう。

「熱かったら言ってくださいね」

 いつもと変わらない黒川さんの声が、少しだけ冷静にさせた。
 今、聞いておかなくちゃ、もう、聞けない。
 こんな思わせぶりは、耐えられない。

「そ、そういえば。年末って、お一人でいらしたんですか?」
「いいえ」

 ――やっぱり、彼女でしょ?
 
「姪っ子と行ってきたんですよ」
「え?」
「なんだか、彼氏にドタキャンされたとかで。まったく、この年で高校生のお守りをさせられるとは思いませんでした」
「ええっ?」
「あ。うち、十歳上の兄貴がいたんですよ。早瀬さんの子供のころには、もう大学行ってたから、会ったことないだろうけど」

 ……そうなの?

「あ。でも、彼女の剣幕にビビった彼氏が、途中から迎えにきたので、一人の時間もできたんですけどね」

 あ、そう……そう、だったんだ。
 黒川さんの言葉に、なんか、一気に緊張がとけた気がした。