「ノエル、いい子だ、終わったよ」

 ノエルが処置されるのが見ていられないオーナーは、いつも診察中は待合室にいるそうで、今日も離れた場所で待っていた。

 今は、さっきより少し近くで待っている。

「ノエル置いてくる」
 すらりと持て余す長い足が軽快に走り、すぐに帰ってきた。

「帰ってくるの早いですね」
「その短い足を基準に早い遅い言ったら、ほぼすべての人々が早い」

「その舌、なにか毒を塗ってますよね?」

 なんとか、足を引っ張らずにできたかな。

 なんて思う間もなく、次々にやることが押し寄せてきて、手も足も足りないほど。

 とにかく想像を絶する忙しさに考える暇もなく、ただ体が反応してこなしている感じ。

 走りつづける私は、まるで泳ぎをやめると死んでしまうマグロみたい。

 ケアステに戻ってきたと思ったら、受付にいた美丘さんが足早にやってきた。

「海知先生、戻ってきたばかりのところを申し訳ないのですが、土佐犬の岩見大将と姫が外に到着しました」 

「いいえ、仕事ですから。星川、行くよ」
 目の前の仕事を淡々とこなす姿勢が、口調にも淡々と表れている。

 今、バーニーズのノエルの注射から戻ってきたと思ったら、もう次の子たちか。ほんとにハードだ。

「大丈夫? 走らせてごめんなさいね」
「いいえ、平気です」

 申し訳なさそうに眉を下げる、美丘さんに答える背後から、海知先生の声が聞こえた。

「星川、早くおいで、アル綿忘れるなよ」
「はい!」
 すぐに海知先生のうしろをついて行く。

 だれかにうしろから押されているように駆けずり回る。
 海知先生の有り余る体力なんなの、分けてほしい。

「四月といえども、日射しの強い日中は汗ばむな」
 大きな目を細めて額に手をあて、空を見上げている。

「聞いてるか?」
「は、はい、聞いてます。暑いくらいですよね」
 空を仰ぎ見る美しい横顔に、見惚れていたなんて言えるわけない。

「あの大きなトラックがそうですか?」
「そうだよ、あのトラックだ。相変わらず岩見さん、パワフルだな」

 話好きそうな、ごついオーナーが人懐こい海知先生と話をしたそうに、にこにこしながら待ち構えている。

 オーナーに挨拶した海知先生は話しながら、私に指示を出す。

「先に姫ちゃんから保定して」
「はい」
 おとなしい姫の注射は、あっという間に終了した。

 姫を褒めちぎる海知先生に、オーナーのまんざらでもない笑い声が響き渡る。
 その声の大きさにも二頭は動じない。

「次、大将くん、保定して」
「きゃ」
 反射的に小さな声が漏れ、まるでスポンジの上に立つように、体がよろめいた。

「大丈夫か」
 ふだんの爽やかな声じゃない。

 別人のような、低く語気が強めの声が、耳の近くで響き渡った。

 一瞬で、少し汗ばんだ海知先生のスクラブの胸の中に引き寄せられ包み込まれ、必死に腕にしがみついた。