一時あずかりの子の処置をするあいだ、保定をしながら、いつも通りに海知先生がいろいろ教えてくれた。

「よし、おしまい。忙しくなるから、できるときに休憩してたほうがいい」
 お言葉に甘えて、座って束の間の休憩中。

 海知先生は大きな処置台をはさんだ向こうの診察台をデスク代わりに、学会の資料をまとめるってがんばっている。

 マキオを膝の上に乗せ、私の隣に座るテンダーを撫でながら、一瞬でも目を逸らすのが惜しくて、じっと見つめてしまう。

 形のいい指に万年筆をはさみ、資料を深く読み込んでいる。
 眼球も微動だにしないほど、集中しているんだ。

 ふと考え込むように閉じた目は、瞼の上に広く深く刻まれた、線がきれいな二重瞼。

 あまりにきれいだから眺めていたら、バネで弾かれたように急に見開くから、瞬く間に目と目が合ってしまった。

 まずい、じっと見ていたのバレたかな。

 数秒間の穏やかな沈黙の中、入院室の気配は気まずいほど、しんとして話す言葉も見つからない。

 安らいでいるときの優しい目で微笑みかけられたから、安心して呼吸を忘れていたかのように、大きく息を吸った。

 と、急にブザーが鳴るから、肩先がびくっと上がり辺りを見回す。
 どうした、何事!? びっくり、なに今の。

 テンダーもマキオも慣れっこなの? まったく驚くそぶりも見せない。

「院内放送だ」

 頭の上から視線を正面に落とすと、長く繊細な指先をスピーカーに向け、微笑みが消えた真剣な顔で眉をひそめて、耳を澄ましている。

「狂犬病ワクチン予防注射のノエルがきた、アル綿持って」

「はい」
「バーニーズの男の子だ」
 すぐに屋外に走る。

「四月から六月は、狂犬病ワクチン予防注射で待合室が混雑する。だから中型犬以上は仲秋に隣接している駐車場で注射をするんだよ」

「さっき、美丘さんと話してましたよね」
「よし、よく覚えてたな」
 海知先生は、たまにこうして試してくる。

 しかし、小走りのまま息も途切れず、一気に教えてくれる肺活量が凄くて尊敬する。

「ここで注射の準備をして待ってて。今、ノエルを連れてくる」
「はい」

 シリンジに注射液を吸って空泡を人さし指で弾き、注射液を少し発射して空気を抜き、キャップをはめる。

 これも海知先生に教わった。

 リズムよく悠然と歩く、超大型犬のノエルのリードを引きながら、海知先生が優雅に歩いてくる。

 ただ歩いているだけなのに、どうしてあんなに絵になるの。

「ノエル、初めまして、おとなしそうですね」
「おとなしいぞ、凄くいい子だよ、一応保定するか」

 きょとんとした顔のノエルは、怯えるそぶりも見せない。

「ノエルと向かい合って、そのまま股にノエルの頭を入れて、太ももで軽くノエルの首あたりを締めて、首輪を持って」

「はい」
「星川の太もも逞しいから軽くな、本当に軽くでいいからな」
「そんなに強調しなくても」

「ノエル、元気だったか、すぐ終わるからな、いい子だな」

 海知先生が、気をそらすようにノエルに話しかけながら、さりげなく注射針のキャップを歯でくわえキャップを外した。

 なに今の。か、かっこいい!