「痛みは?」
「そういえば、痛みが落ち着いてます」

「愛情ホルモンが分泌されると、体の痛みに対する耐久力がアップする効果があるんだよ」
 だから、今は痛みが落ち着いてるんだ。

 海知先生といっしょにいるんだもん。愛情ホルモンが、たくさん溢れているよね。

「でも海知先生」
「なに?」
「もしも、ひとりぼっちのときに痛くなったら?」

「哺乳類とのスキンシップもいい。テンダーやマキオを撫でるだけで、幸せな気分になるだろ?」

「心が落ち着きます」
 哺乳類っていったら、海知先生もだ。海知先生とのスキンシップかあ。

 楽しく弾む音符だらけの宙を見つめると、夢みたいな未来が見えてくる。想像が、ぐんぐん膨らんじゃう。

「なんだよ、にやにや気持ち悪いな」
 出た、いつもの毒舌。引きずり下ろされるように現実に戻された。

「今日は帰宅したら、好きな音楽でも聞いて、ゆっくり休むんだよ。自分を優しく(いたわ)ってあげるんだ」

 なんて言うんだろう、海知先生って気持ちを楽にしてくれる。

 心も体も温かくなって、お風呂に入っているときみたいな、極上の気持ちよさを与えてくれる。

「さ、一時あずかりの子の処置を片付けちゃおう」
 気合いを入れるように、立て膝を叩いた海知先生が立ち上がった。

「立てるか? 俺に体をあずけて」
「すみません」
 言われるままに、身をまかせて立ち上がった。

 スクラブから覗く、筋立った力のある腕が逞しくて、心が波立ち騒いで落ち着かなくなる。

 平常心ってどんなだったっけ? どきどき動揺してしまっているから、心が落ち着くって状態を忘れちゃった。

「すみませんよりも、ありがとうって言ったほうがオキシなんとかが分泌するよ。オキシなんだっけ?」

「オチチトチンです」
「オキシトシンだろ、二歳児かよ。舌っ足らずなんだな」

 遠慮なく鼻の頭にしわを集めて、げらげら笑い転げるから、もっときつくしがみついた。

「体を揺らしてごめん、痛いよな」
 言いながらも、まだ耐えられないみたいで広い肩を遠慮がちに、揺すりながら笑っている。

「オキシトシンです」
 は、恥ずかしい。改めて思い返すと、穴があったら入りたい。

 今さっきの記憶が、海知先生の頭の中から消えますように。

「オキシトシン覚えたな」
「でも、この知識は獣医療では、一生使わないかも知れないですね」

「一生に一度、使うか使わないかの知識でも、オーナーや患畜の人生を決定的に変えることがある」

 今の今まで、ひいひい言って爆笑していた海知先生から真剣に諭されて、ぽろりと軽率に言った自分が恥ずかしかった。

 そして、一生懸命勉強しなくちゃと思わされた。

「今の俺の言葉。“こんなこと役立つわけがない”って気持ちになったときに、戒めの言葉として忘れるな」
「はい」

「星川は、勘がいいから覚えてられるよ。さあ、処置片付けちゃおう」