「星川を広い心で温かく見守ってやってくれ」
 泉田先生、いつも優しいのに、今まで私に対して、そんな想いを抱いていたの?

 逆にいい人に思えてくる。よく隠して、私と接していてくれたね。

 さすが獣医、“常に冷静沈着であれ”を貫いて。

「どうしちゃったのよ。カルムの臨床だって、もっと力を入れて専念したかったでしょ。朝人の性格は、私がだれよりもわかってる」

 そんなにプライベートで仲がいいいの?

 目を細めて、目じりに小じわを寄せながら聞き耳を立てる。

「俺は臨床に専念できてないんじゃない。担当医になったら、自覚と責任感をもてよ」

 私には優しい口調なのに、泉田先生には突き放す言い方もするんだ。
 新人動物看護師とベテラン獣医だもん、海知先生も接し方を変えるか。

「人のせいにしたり言い訳するくらいなら、最初から院長に断れよ。俺への頼り方を間違えんな」

 海知先生、本当に厳しいな。プライベートでは泉田先生に、きつい言い方をするんだ。

「甘えてごめんなさい」
「動物の命がかかってんだ、甘えんな。よけいな感情を仕事に持ち込むな」

 ふだん温厚な海知先生でも、動物の命がかかると厳しくなる。
 それは当然なんだけれどね。
 
 海知先生が動き出した。

 離れたから、背筋と首を伸ばせるくらい伸ばして、頭を上げて行方(ゆくえ)を目で追う。
 本棚に文献と資料を持ちに行ったのか。

 生きた心地がしないほど、どきっとした、こっちにこなくてよかった。

「翻訳しておいたよ、これが参考になる。毎日あれこれ悩んで引きずるな。今日のうちに問題解決して、すっきりした顔しろよ」
「ありがとう」

「獣医師の使命は日々学習、日進月歩。今日は不可能でも、明日は可能になる。そう信じるんだ、和久子ならできる」
「うん」

「金欠病の銭形平次みたいなしょぼい顔、もうすんなよ、わかった?」
「うん」

「みんながきたら、小さい声でピーチって言ってから、おはようって言ってみ。嫌でも笑顔で、おはようになる。じゃあ、またあとで」

 わあ凄い。試してみたら、嫌でも笑顔になる。海知先生、天才か。

「ありがとう」
「笑えよ、せっかく新しい一日が始まるんだ、じゃあ、またあとでな、ふだん通りにだよ」
「うん」

 笑顔になった泉田先生の表情に気を取られていたら、海知先生が歩き出していたのに気づかなかった。

 まずい、海知先生が出てきちゃう。あああ、油断した、泉田先生きれいな顔して笑うから。

 きゅっきゅっとスニーカーを鳴らす、いつもの元気な足音が聞こえたかと思えば、すらりとした長い足は、ものの数秒で私の目の前に現れた。

「なにやってんだ?」
 きょとんとした大きな瞳が、視線を投げて寄越す。

 言い訳が思い浮かばない、どうしよう。
 これは、どうにも逃げ隠れができない絶体絶命のピンチだ。

 さあ、どうする?