「子どものころさ、“ぶったら豚によく似てる”って言ったよね」
「さあ、記憶にないですね」
「ロンドンでは言わなかったか」
「ええ、そういう言葉は、なかったですね」

「私さ、“ぶったは豚煮よく煮てる”だと思ってたんだ」
「豚が豚煮をよく煮てるって、想像するとシュールな()ですね」

「ぶったって豚じゃなくて、仏だよ」
「えっ、そっちなんですか!」
 声を上げた海知先生が、泉田先生の発想が怖いとでも言いたげに、顔の片側を歪ませる。

「豚じゃないのか。泉田先生は、今まで仏のブッダだと思ってたのか。どんな思考回路なんだ?」

 海知先生が、頭の中で処理し切れないからか、ぶつぶつ独り言をつぶやき、声に出して整理しているみたい。

「あと、それブッダです」

 細かいところに気遣うのが、さすが獣医。泉田先生が間違えて覚えていることを、指摘してあげている。

「そっか、驚いた。今日まで二十年間生きてきて、初めて知った」

「泉田先生、歳の計算、大幅に間違えてますよ。凄いですね、よく獣医をやってますね」

「ねえねえ、海知くん、褒めてもなんにも出ないよ」
「褒めたつもりはありません」

 いつもの和やかな仲秋の楽しい時間は、いつまでもつづいた。

 しばらくして、限られた時間ではあっただろう梅吉が、昨日旅立ったと連絡が入った。

 昨日今日と、ランスに梅吉と立てつづけに見送った。

 元気だったのに、ある日、突然、交通事故で駆け抜けるように、落ちて(死んで)逝った若犬のランス。

 家族の一員が、さっきまでふつうにいたのに、急に消えてしまったオーナーは、取り乱し泣き叫び、自分の身を引き裂かれる、つらく哀しい想いをしている。

 片や、いくつもの持病を抱え、長い闘病の末に力尽きた老猫の梅吉。

 治療の甲斐もなくではなく、年金暮らしを送っている老夫婦の経済的体力がなくなったことと、猫の介護をできるほどの体力がなくなったこと。
 
 この理由から、まだ治療法が何個もあったけれど、オーナーの決断を尊重して、治療を断念した。

 オーナーは梅吉が生き長らえる選択は、最初から持ち合わせてはいなかった。
 
 しょせん猫は猫であり動物、決して自分たちの家族の一員じゃないという、老夫婦の考え方。

 自分の命に代えてでも、梅吉の命を助けてほしい。
 いくらお金がかかろうとも、背に腹は代えられない、どうか梅吉を救ってほしい。

 そこまで想う愛着は、梅吉になかった。

 そう考えると、老夫婦がこれ以上、梅吉の治療を望まなかったのが納得できる。
 
 獣医は、最終的に決断を下すことはできないのが、もどかしく悔しい。

 オーナーが決めることなので、その考え方を受け入れて納得するしかない。

 私の記憶に残るであろう、対照的な二頭の死だった。