「もしかして、いつも海知先生が言う、あいつって川瀬さんじゃないですか」

 アスファルトから目を転じて、見る箇所を海知先生の瞳に変える。

 今までの数々の出来事が、五分前のことみたいに頭の中に、次々に浮かんできた。

 その記憶は、私を十分に納得させるものばかり。
 こういうときの直感は当たるもの。

 口にする答えは、質問することなく断定する。
「川瀬さんですよね」
「ああ」

 あれだけ呼び間違えれば、海知先生の返事は言わずもがなの答えだって、聞く前から察した。

「私と川瀬さんを比べるのも、海知先生の心の中だけで、お願いします」
 お願いだから、やめてよ。

 海知先生自身も無意識に、あいつって言っちゃったの、気づいたときがあったじゃない。
 意識が、どっか飛んでいたって。

 あああ、ダメだ、ダメだ、さっきから私がしていることは、海知先生に求めてばかり。

 海知先生の想いだってあるのに、いつだって終わったことをくりかえすのは、私。

 自分のことばかり主張している私は、まだまだ子どもじみている。

 海知先生を見守るだなんて、はりきっていたのに、今のこの状況はなに?

「ごめんなさい」
「どうして、星川が謝るんだ、なにも悪くない」
「一度終わった話を、またくりかえして嫌気がさしますよね」

「思ってることを、はっきりと口に出してくれる方が、俺の性に合ってる」

 海知先生と、ちゃんと向き合いたいから。

「これからは、気をつけるよ」

 二人のあいだに醸し出される雰囲気から、これで話が一区切りしそうな気配を感じ取った。

 このままだと海知先生が帰っちゃう、嫌だ、行かないで。

 心はざわめき立ち、はやる気持ちを抑えられなくなった。

「さっき、腕を組んだりしたのは、海知先生としてみたかったし、下の名前を呼んでみたかった」

 想いが口から飛び出して止まらない。

「真下さんに付き合ってるって言ったのは、あのときだけでも、夢を見たかったから」

 叶わない想いでも、心の中から解放してあげたら、気持ちはすっきりするの?

 届かない想いが口をついて溢れ出す。

 憧れの海知先生と、一度でも恋人気分に浸れて、心の底から嬉しかった。

 虚構だから虚しいなんて気持ちは、これっぽっちもない。

 私の心の中は、胸踊る嬉しい気持ちだけだった。
 自分にとって、贅沢すぎるほど十分に幸せな時間だった。

 二人の沈黙のあいだを、大通り沿いを何台かの自動車が走り抜けて行く。

 ──どのくらいの時が経ったんだろう──

 数時間にも感じられる、流れる沈黙の中、二人の影は重なりかけながら、アスファルトに短く伸びていた。

 口に出す言葉で、自分の考えを確認するように、海知先生が口を開いた。

「ごめん、今は星川の気持ちを受け入れることはできない」

 海知先生の返事は当然のことだと、最初からわかっていた。