仕事を定時で切り上げて、遼ちゃんのお見舞いに行くことにした。
 彼女の一方的な宣戦布告から、遼ちゃんに会うことで、少しでも心を強くさせてほしかったから。
 面会時間は20時まで。だから、少しでも長く一緒にいたいから、急いで病室に向かった。

 病室の入り口にあるプレートに書かれている『坂本 遼』の名前を見て、ふっと微笑みがこぼれた。
 ドアは開いていた。白いカーテンのみ。
 もう寝てるかな、と思って、こっそりカーテンをひく。

 ――ナンデ、イツモ、アナタハイルンデスカ
 ――ソレモ、サイテイナ、シチュエーションデ

 ベッドに寝ている遼ちゃんに、黒髪を耳にかけながら、口づけをしている本城乃蒼。眠り姫の逆バージョン?
 あまりに美しすぎて、私は静かにカーテンを戻した。

 ――マタ、デスカ
 ――ドウシテデスカ
 ――ドレダケ、ワタシノココロヲ、エグレバ、キガスムンデスカ

 同じフロアにはいたくなくて、一つ下の休憩スペースに移動する。
 その間、涙がポロポロ、ポロポロと止まらない。

 ――どう考えたって、私なんかより、彼女のほうがステキ。

 彼女の美しさが、余計に私を貶める。



 面会時間の残りが、あと30分しかなかった。それでも、遼ちゃんに会いたいと思う私の気持ちには勝てなかった。
 もう一度、病室に行くと、カーテンをそっとひくと、そこには遼ちゃん一人だけ。身体を起こして、雑誌を読んでいた。

「遼……ちゃん?」

 私の声に、目をあげた遼ちゃんの唇に、うっすらとピンクのグロス。
 ソレに気づいた私は、今までにないほどの怒りが込み上げてきた。

 ――ナンデ、キヅカナイノ?
 ――アナタノクチビルハ、ワタシダケノモノナノニ!

 鞄の中をごそごそとかき回して、ティッシュペーパーを取り出した。

「美輪?」

 不思議そうな顔をする遼ちゃんが、余計に許せなくなった。

「う、う、うー」

 泣かない。こんなので、泣かない。
 遼ちゃんのそばに座って、ゴシゴシと遼ちゃんの唇の、彼女の跡を消そうとした。

「な、なに? 痛いんだけど」

 眉間にシワをよせて、私の手を取る遼ちゃん。
 そしてようやく、気づいた。ティッシュペーパーに移った、ピンクの色に。

「なっ!」

 慌てて、右手で唇をこする。
 もう私の怒りにまかせたティッシュによって消えてるけど。
 今頃驚く遼ちゃんに、怒りしか感じない。

「……何やってるのよ」

 怒りのあまり、うなるような声になる。そして、やっぱり、涙が零れてきた。
 あんなに泣いたのに、どこから湧いてくるのかっていうくらい、涙は止まってくれない

「え、あ。てっきり、美輪が来てたのが夢だと思ってた」
「なにそれ。意味わかんない」
「夢で美輪にキスされたから」

 それ、私じゃないし。

「目が覚めた時には、誰もいなかったし。だから、やっぱり夢だって」
「グロス、ついてたのに?」
「起きたのついさっきだし、ぼんやりしてたか……ら……?」

 私の怒りの表情に怯える遼ちゃんが、憎らしくて仕方がない。

「遼ちゃん、兵頭さんに、私の番号教えた?」
「え、うん」

 とぼけた顔で素直に認める事すら、憎らしい。

「昨日、彼女から電話あった」
「うん」
「宣戦布告されたんですけど」
「……へ?」

 宣戦布告、が何を意味するのか、遼ちゃんの頭の回路がうまく働いていないようだ。だから、ゆっくり言ってやる。

「り、遼ちゃんを、くれってさ。なっ、なんで、遼ちゃ……んっ」

 大きく目を見開く遼ちゃん。

「も、もう、私、限界っ、もう、嫌っ」

 遼ちゃんは、ひたすら泣くことしかできない私の腕をつかんで、抱き寄せた。

「ごめんよ、ごめんっ!」

 声を押し殺して泣く私の背中を、優しく撫でる手。それは、まるで絡みつく蔦のように、私の心に纏わりつく。こんなに辛いのに、どうしても、彼から離れられない。
 彼の温もりに、しがみついてしまう自分が、余計に情けなくなった。



 そんな遼ちゃんが、とても冷たい目で、カーテン越しのガラスを睨んでいたことに、私は気づかなかった。