『ええと、でも、たいしたことはなかったから。むしろそのまま落ちてたら最悪死んでた可能性もあったみたいで、だからその男の人は命の恩人なの。それに、そのあと、びっくりして泣き出しちゃったわたしをずっと慰めてくれて、内緒で学校に入ってたから先生に知られたくないって言ったら、学校の人達にばれないように家まで送ってくれて、親にも事情を説明して病院に行くように言ってくれて……とにかく本当にお世話になったの。それで、落ち着いてから親がお礼を…っていうことになったんだけど、友達の誰に訊いてもその男の人のことは知らないって言うし、わたしは気が動転してて顔もはっきり覚えてないし、親もちょっとしか会ってないからよく見てなかったみたいで、その男の人を探し当てることはできなかったのよ。唯一の手がかりは……』

『手首のほくろ(・・・)だった…と』

『そういうこと』

なるほどなと、合点がいった様子の前崎くんは、ジュッと野菜ジュースを飲み干した。


『それで、同じ場所にほくろがある俺に何かヒントがないか訊いたわけだ』

『そうなんだけど……。でもきっと、ほくろの位置なんてただの偶然でしかないわよね。遺伝とか家系とか関係なさそうだし』

それでなくても、もう十年も昔の出来事だ。
当時あの男の人が学生だったのか社会人だったのかは定かではないけれど、十年経った今も、この街にいるとは限らない。
もしわたしが男の人の人相を覚えていたとしても、十年も過ぎればいくらでも顔つきは変わってしまってるだろうし。

最後の手段として、あのとき勝手に入った小学校で当時働いていた職員に事情を説明して協力をあおぐこともできたものの、幼心にも不法侵入(・・・・)という認識はあったので、それを選ぶことはできなかった。

こうなると、もう、あの命の恩人にお礼を伝えることは絶対不可能に思えた。
そうして、どうにもこうにも事態が動かないまま、十年の月日が流れてしまったわけである。