稜輔side
7年前、兄夫婦が交通事故で死んだ。一人息子の竜を残して。
実家を飛び出して離れて暮らしていた僕に母親から連絡があった。気落ちした声で、一度帰ってこないかと。父親であり当時の当主であった宗一郎とは冷戦状態であったが、それでも兄家族には世話になっていたので肩身は狭いが本家を訪れることにした。静かに本家の戸を開けると、兄夫婦の息子の竜が真っ先に僕に駆け寄って来た。
「稜輔、久しぶり」
まだ十歳の竜の目には生気がなく、なんとか口角を上げただけの笑顔を見せた。両親を亡くし、その時の記憶がほぼない竜は周りから「可哀想に」と言われ続け、笑顔を作ることを覚えていた。
「これからはこっちにずっといるの?」
「それは……」
母親に呼ばれて葬儀だけ参列しようとしていた僕は竜の問いかけに言い淀んだ。竜は僕の手をぎゅっと握って縋るように見上げてくる。正直、何故こんなに懐かれているのか分からない。頻繁に会ったりしていないし、何かをプレゼントしたり遊んだりもしていない。答えられないでいると、竜は俯いて僕の手を離しトボトボと奥の部屋へ行ってしまった。落ち込ませてしまったことに罪悪感を覚えながら、父母のいる部屋へ向かった。久しぶりに会う両親。緊張で手のひらに汗が滲んできた。
襖を開けると、兄夫婦の遺体が寝ている前に父母が座っていた。母親が僕に気がつき、「おかえりなさい」と立ちあがろうとした。久しぶりに会った母親は動作が格段にゆっくりになっており、立ち上がるのも一苦労のようだったので、そのまま座っているようにと言った。父親は兄夫婦の遺体を見つめたまま、こっちを見ようともせずに「顔を見てあげなさい」と言った。交通事故と聞いていたので、傷が大きいかもしれないと覚悟していたが、綺麗に死化粧されて傷跡がほとんど分からなくなっていた。
死んでしまったんだ。僕の兄貴は。小さい頃から兄と過ごした思い出が駆けていった。
兄、蒼介は要領が良くて頼りになる人物だった。昔から父と僕は性格が合わず衝突していたが、そんな時は蒼介が上手く双方を言いくるめて仲裁してくれていた。
「稜輔、お前は素直すぎるんだ。もっとやり方を考えないと」
そう言って最後は僕の味方をして上手く事が運ぶように仕向けてくれていた。
僕が高校生の時、蒼介は次期社長として二ノ宮の会社で働き、結婚をし、竜が生まれた。高校卒業後、父親と大喧嘩をし、家を出た僕に「しょうがない奴だな」と何度も何度も連絡してくれていた。気が乗らない時はその連絡も無視していたが、こんなことになるならもっと会いに行けばよかったとどうしようもない後悔をした。
「竜が妙な表情をする。親の顔を見ても、理解していないような、まるで他人の顔を見ているような反応をするんだ」
「兄さん達のことが分からないってこと?」
「何と言えばいいか。自分の状況や立場は理解しているみたいなんだが」
父は竜にどうしてやればいいのか分からず困っている様子。確かに、父母を亡くした小学生にしてはやけにあっけらかんとしている気がする。
「稜輔!」
別の部屋に行った竜が、先ほどより明るい表情で駆け寄ってきた。この間に何か嬉しい事でもあったのだろうか。
「さっきね、春希が来てくれたんだよ」
「春希ちゃん?」
竜の幼なじみの春希ちゃん。事故当日、兄夫婦や竜と一緒の車に乗っていて未だ意識が戻らず重体だと聞いていたので竜の言葉が信じられず、首を傾げた。後ろにいた親戚一同、とうとう竜の精神状態がおかしくなってしまったとどよめいた。竜はそのざわつきに驚き困っている。父母も何も言わないが目を丸くし、動揺している。竜は何故誰にも信じてもらえないのか不思議で混乱している様子。僕まで疑ってはいけないと動揺を隠し、竜を自分の隣に座らせた。
「そうなんだ。よかったね」
「うん!でも一人で来たからすぐに帰らなきゃいけなくて、もう行っちゃった」
「落ち着いてから、また遊びなよ」
竜の言葉を受け入れ、春希ちゃんの話を当然のように聞くと嬉しそうに話す竜。
「竜、お祖父さんとお話があるから郁留君と遊んでおいで」
親戚達と一緒に後ろにいた郁留は「行こう」と竜を呼びに来た。郁留は稜輔と目を合わせ頷くと竜の手を引き、庭へと出て行った。竜と同級生ながら空気が読める子だ。
「僕、竜と暮らそうと思います」
そう言うと、父親はやっとこちらを向き僕と向かい合って座り直した。
「竜の言ってる事、本当だと思うか?儂らは全員疑ってしまった。まだ信じてやれていない」
「本当かどうかの前に、ちゃんと話を聞いてあげないと、と思いました」
父、宗一郎は「そうだな」と呟くと、小さく僕に頭を下げた。
「竜を頼む。それから、戻ってくる気はないか?」
父親が自分に頭を下げたことに驚き戸惑った。昔の棘が丸く削られている。こんなに普通に話ができた事があっただろうか。随分と年老いて弱々しく小さくなっている父親に少し寂しさを覚えた。
「分かりました。二ノ宮の会社に入ります。新入社員として」
僕が頷くと、父親は郁留の兄の伸之輔を呼び寄せた。僕と年が近く、親戚で集まる時は蒼介と伸之輔の三人でよく遊んでいた。
「しばらくは伸之輔が社長を務めてくれる。まだ未熟だから儂の補佐をする形になるが。竜が高校卒業する頃に代わってやってくれ。なかなか疲れる役目だからな」
父は蒼介に会社を継がせ、補佐を僕に当てがおうと思っていたらしいが、僕が家に帰らないので諦めて伸之輔に補佐をさせようと教育していたらしい。だが、蒼介が亡くなってしまったので伸之輔の役目はさらに繰り上がってしまった。社会人になったばかりの伸之輔が背負うには大きすぎる役目だ。かと言って突然家を出て行き、今までろくに連絡もしなかった自分が務めると言っても周りの人間が納得しないだろう。
「稜輔君、子供の世話なんてしたことないでしょ?しばらくは竜君で精一杯だと思うよ。一段落したら一緒に頑張ろうね」
竜と同い年の弟を持つ伸之輔は兄貴らしい顔を見せて笑っていた。そもそも自分が家出をしなければ伸之輔にこんな重大な役目はいかなかった。もしかして恨まれているかもしれないと思ったが、伸之輔にそんな様子はなかった。
しばらく三人で話し合っていると、郁留が様子を伺いながら近づいて来た。
「あの、稜輔さん」
竜と庭で遊んでいたと思っていたが何かあったのだろうか。郁留に連れられて行くと、竜が縁で寝ていた。
「休憩してたら寝てて」
目の下にクマができていたから、あまり眠れていなかったのだろう。本家で寝泊まりしていたということだったので、慣れない場所で大勢の人に囲まれて落ち着けなかったのかもしれない。連れてきてくれた郁留にお礼を言い、竜をおぶると父母や親戚に挨拶をして竜の家に連れて帰ることにした。タクシーで帰ろうとも思ったが、交通事故直後で車になんか乗りたくないかもしれないと思い、竜をおぶったまま歩くことにした。
しばらく歩いていると、背中に冷たいものがつたった。涎を垂らして寝てるなぁ。明日も葬儀でこの喪服を着るんだけどなぁ。と思っていると、背中の上で竜がもぞもぞと動き涎を拭って起きた。
「どこに行くの?」
「家に帰るんだよ」
「え?いいの?」
「竜の家なんだから、いいんだよ」
「そっか。本当は帰りたかったんだ。お父さんとお母さんの寝てる家では寝れなくて」
「怖かったの?」
「ううん。今までのことは夢だったのかもって期待してしまうから」
「じゃあ、今日はゆっくり寝られるといいね」
「うん。でも、」
帰っても俺一人だ。と竜が言いかける前に「ねぇ」と話しかけた。
「竜の家に僕も住んでいいかな?」
「え!いいの?」
「竜の家なんだから、竜が決めてよ」
竜は僕の首に抱きついて「いいよ!」と言った。
家に着いてすぐ、当時大学生だった千秋に竜のことを電話で説明した。付き合って間もない男が甥っ子を引き取って育てるのだ。付き合っていられない気持ちになってもしょうがない。振られる覚悟をしていたが、千秋は「あら、そうなの」と言っただけだった。
「千秋ちゃん、僕らと一緒に住んでくれないか」
「なぁに、それ。プロポーズみたい」
電話口から千秋の笑い声が聞こえる。肝が据わっているというか、事を重く捉えていない千秋の受け答えに肩透かしをくらい続ける。
「学校もそっちからなんとか通えるし、いいよ」
「ありがとう。正直プレッシャーで潰れそうなんだ」
何故か懐いてくる竜。期待の眼差しを向けられるが、上手く応えてあげられるか分からない。僕はそんなにできた人間じゃない。
彼女はよく周りを見ている。それでいて爽快な人だ。年下で学生の千秋に頼るのは情けないが、きっと彼女といればなんでも乗り越えられると思った。
千秋は僕の電話をうけてすぐに家に来てくれた。日も落ちてきているので後日でいいと言ったが、彼女の姿を見ると安心できた。
「こんにちは、木村千秋です」
千秋は屈んで竜に目線を合わせて自己紹介した。
「二ノ宮竜です……」
自分の母親より若い女性とあまり関わったことがなかった竜は人見知りをして僕の服の裾を掴んで小さくお辞儀をした。
「稜輔の彼女?」
「そうだよ」
「へぇ、稜輔もすみにおけないな」
「……そんな事、どこで覚えたの」
「お父さんが言ってた」
「そう……」
おそらく春希ちゃんとのことをからかわれた時にでも覚えたのだろう。まったくもう、彼の父親は口は悪いし変なことばっかり言う人だ。
「千秋さんも一緒に住んでいいかな?」
「いいよ。稜輔の好きな人でしょ?好きな人とは一緒にいたいもんね。俺も春希と一緒にいたいもん」
千秋は「ませた子ね」と言って笑った。素直で純真だが、その春希ちゃんは病院で意識不明ということを思うと切ない気持ちになった。
「さぁ、忙しくなるわね。引っ越しもしないといけないし、まず挨拶しに行かないと。見知らぬ女が息子と孫の家に住み着いてたらびっくりされちゃうわ」
千秋は立ち上がって腰に手を当て「よし!」と気合を入れた。
「お父さんとお母さんの物は捨てて、家具も新しくしていいよ」
竜は家の中をぐるっと見渡して僕と千秋に言った。
「そんなことしていいの?」
「うん。ガラッと変わった方がいい」
この子は現実逃避がしたいのだ。すぐに普通の生活に戻るには、早くに諦めて忘れてしまった方がいいと思っているのだろう。
千秋は再び竜の前に屈み、肩を撫でた。
「我慢してたのね。よく頑張ったね」
千秋が優しく褒めると、竜は顔をクシャと歪ませて大粒の涙を流した。やっと子供らしい表情を見せてくれてホッとした。僕も竜の側に屈み、彼の小さい頭を撫でた。竜はひとしきり泣いた後、泣き疲れてぐっすり眠りについた。
「あなたの側が一番安心するみたいね」
千秋が涎を垂らして寝ている竜を見て言った。
これが、僕らの暮らしの始まり。
7年前、兄夫婦が交通事故で死んだ。一人息子の竜を残して。
実家を飛び出して離れて暮らしていた僕に母親から連絡があった。気落ちした声で、一度帰ってこないかと。父親であり当時の当主であった宗一郎とは冷戦状態であったが、それでも兄家族には世話になっていたので肩身は狭いが本家を訪れることにした。静かに本家の戸を開けると、兄夫婦の息子の竜が真っ先に僕に駆け寄って来た。
「稜輔、久しぶり」
まだ十歳の竜の目には生気がなく、なんとか口角を上げただけの笑顔を見せた。両親を亡くし、その時の記憶がほぼない竜は周りから「可哀想に」と言われ続け、笑顔を作ることを覚えていた。
「これからはこっちにずっといるの?」
「それは……」
母親に呼ばれて葬儀だけ参列しようとしていた僕は竜の問いかけに言い淀んだ。竜は僕の手をぎゅっと握って縋るように見上げてくる。正直、何故こんなに懐かれているのか分からない。頻繁に会ったりしていないし、何かをプレゼントしたり遊んだりもしていない。答えられないでいると、竜は俯いて僕の手を離しトボトボと奥の部屋へ行ってしまった。落ち込ませてしまったことに罪悪感を覚えながら、父母のいる部屋へ向かった。久しぶりに会う両親。緊張で手のひらに汗が滲んできた。
襖を開けると、兄夫婦の遺体が寝ている前に父母が座っていた。母親が僕に気がつき、「おかえりなさい」と立ちあがろうとした。久しぶりに会った母親は動作が格段にゆっくりになっており、立ち上がるのも一苦労のようだったので、そのまま座っているようにと言った。父親は兄夫婦の遺体を見つめたまま、こっちを見ようともせずに「顔を見てあげなさい」と言った。交通事故と聞いていたので、傷が大きいかもしれないと覚悟していたが、綺麗に死化粧されて傷跡がほとんど分からなくなっていた。
死んでしまったんだ。僕の兄貴は。小さい頃から兄と過ごした思い出が駆けていった。
兄、蒼介は要領が良くて頼りになる人物だった。昔から父と僕は性格が合わず衝突していたが、そんな時は蒼介が上手く双方を言いくるめて仲裁してくれていた。
「稜輔、お前は素直すぎるんだ。もっとやり方を考えないと」
そう言って最後は僕の味方をして上手く事が運ぶように仕向けてくれていた。
僕が高校生の時、蒼介は次期社長として二ノ宮の会社で働き、結婚をし、竜が生まれた。高校卒業後、父親と大喧嘩をし、家を出た僕に「しょうがない奴だな」と何度も何度も連絡してくれていた。気が乗らない時はその連絡も無視していたが、こんなことになるならもっと会いに行けばよかったとどうしようもない後悔をした。
「竜が妙な表情をする。親の顔を見ても、理解していないような、まるで他人の顔を見ているような反応をするんだ」
「兄さん達のことが分からないってこと?」
「何と言えばいいか。自分の状況や立場は理解しているみたいなんだが」
父は竜にどうしてやればいいのか分からず困っている様子。確かに、父母を亡くした小学生にしてはやけにあっけらかんとしている気がする。
「稜輔!」
別の部屋に行った竜が、先ほどより明るい表情で駆け寄ってきた。この間に何か嬉しい事でもあったのだろうか。
「さっきね、春希が来てくれたんだよ」
「春希ちゃん?」
竜の幼なじみの春希ちゃん。事故当日、兄夫婦や竜と一緒の車に乗っていて未だ意識が戻らず重体だと聞いていたので竜の言葉が信じられず、首を傾げた。後ろにいた親戚一同、とうとう竜の精神状態がおかしくなってしまったとどよめいた。竜はそのざわつきに驚き困っている。父母も何も言わないが目を丸くし、動揺している。竜は何故誰にも信じてもらえないのか不思議で混乱している様子。僕まで疑ってはいけないと動揺を隠し、竜を自分の隣に座らせた。
「そうなんだ。よかったね」
「うん!でも一人で来たからすぐに帰らなきゃいけなくて、もう行っちゃった」
「落ち着いてから、また遊びなよ」
竜の言葉を受け入れ、春希ちゃんの話を当然のように聞くと嬉しそうに話す竜。
「竜、お祖父さんとお話があるから郁留君と遊んでおいで」
親戚達と一緒に後ろにいた郁留は「行こう」と竜を呼びに来た。郁留は稜輔と目を合わせ頷くと竜の手を引き、庭へと出て行った。竜と同級生ながら空気が読める子だ。
「僕、竜と暮らそうと思います」
そう言うと、父親はやっとこちらを向き僕と向かい合って座り直した。
「竜の言ってる事、本当だと思うか?儂らは全員疑ってしまった。まだ信じてやれていない」
「本当かどうかの前に、ちゃんと話を聞いてあげないと、と思いました」
父、宗一郎は「そうだな」と呟くと、小さく僕に頭を下げた。
「竜を頼む。それから、戻ってくる気はないか?」
父親が自分に頭を下げたことに驚き戸惑った。昔の棘が丸く削られている。こんなに普通に話ができた事があっただろうか。随分と年老いて弱々しく小さくなっている父親に少し寂しさを覚えた。
「分かりました。二ノ宮の会社に入ります。新入社員として」
僕が頷くと、父親は郁留の兄の伸之輔を呼び寄せた。僕と年が近く、親戚で集まる時は蒼介と伸之輔の三人でよく遊んでいた。
「しばらくは伸之輔が社長を務めてくれる。まだ未熟だから儂の補佐をする形になるが。竜が高校卒業する頃に代わってやってくれ。なかなか疲れる役目だからな」
父は蒼介に会社を継がせ、補佐を僕に当てがおうと思っていたらしいが、僕が家に帰らないので諦めて伸之輔に補佐をさせようと教育していたらしい。だが、蒼介が亡くなってしまったので伸之輔の役目はさらに繰り上がってしまった。社会人になったばかりの伸之輔が背負うには大きすぎる役目だ。かと言って突然家を出て行き、今までろくに連絡もしなかった自分が務めると言っても周りの人間が納得しないだろう。
「稜輔君、子供の世話なんてしたことないでしょ?しばらくは竜君で精一杯だと思うよ。一段落したら一緒に頑張ろうね」
竜と同い年の弟を持つ伸之輔は兄貴らしい顔を見せて笑っていた。そもそも自分が家出をしなければ伸之輔にこんな重大な役目はいかなかった。もしかして恨まれているかもしれないと思ったが、伸之輔にそんな様子はなかった。
しばらく三人で話し合っていると、郁留が様子を伺いながら近づいて来た。
「あの、稜輔さん」
竜と庭で遊んでいたと思っていたが何かあったのだろうか。郁留に連れられて行くと、竜が縁で寝ていた。
「休憩してたら寝てて」
目の下にクマができていたから、あまり眠れていなかったのだろう。本家で寝泊まりしていたということだったので、慣れない場所で大勢の人に囲まれて落ち着けなかったのかもしれない。連れてきてくれた郁留にお礼を言い、竜をおぶると父母や親戚に挨拶をして竜の家に連れて帰ることにした。タクシーで帰ろうとも思ったが、交通事故直後で車になんか乗りたくないかもしれないと思い、竜をおぶったまま歩くことにした。
しばらく歩いていると、背中に冷たいものがつたった。涎を垂らして寝てるなぁ。明日も葬儀でこの喪服を着るんだけどなぁ。と思っていると、背中の上で竜がもぞもぞと動き涎を拭って起きた。
「どこに行くの?」
「家に帰るんだよ」
「え?いいの?」
「竜の家なんだから、いいんだよ」
「そっか。本当は帰りたかったんだ。お父さんとお母さんの寝てる家では寝れなくて」
「怖かったの?」
「ううん。今までのことは夢だったのかもって期待してしまうから」
「じゃあ、今日はゆっくり寝られるといいね」
「うん。でも、」
帰っても俺一人だ。と竜が言いかける前に「ねぇ」と話しかけた。
「竜の家に僕も住んでいいかな?」
「え!いいの?」
「竜の家なんだから、竜が決めてよ」
竜は僕の首に抱きついて「いいよ!」と言った。
家に着いてすぐ、当時大学生だった千秋に竜のことを電話で説明した。付き合って間もない男が甥っ子を引き取って育てるのだ。付き合っていられない気持ちになってもしょうがない。振られる覚悟をしていたが、千秋は「あら、そうなの」と言っただけだった。
「千秋ちゃん、僕らと一緒に住んでくれないか」
「なぁに、それ。プロポーズみたい」
電話口から千秋の笑い声が聞こえる。肝が据わっているというか、事を重く捉えていない千秋の受け答えに肩透かしをくらい続ける。
「学校もそっちからなんとか通えるし、いいよ」
「ありがとう。正直プレッシャーで潰れそうなんだ」
何故か懐いてくる竜。期待の眼差しを向けられるが、上手く応えてあげられるか分からない。僕はそんなにできた人間じゃない。
彼女はよく周りを見ている。それでいて爽快な人だ。年下で学生の千秋に頼るのは情けないが、きっと彼女といればなんでも乗り越えられると思った。
千秋は僕の電話をうけてすぐに家に来てくれた。日も落ちてきているので後日でいいと言ったが、彼女の姿を見ると安心できた。
「こんにちは、木村千秋です」
千秋は屈んで竜に目線を合わせて自己紹介した。
「二ノ宮竜です……」
自分の母親より若い女性とあまり関わったことがなかった竜は人見知りをして僕の服の裾を掴んで小さくお辞儀をした。
「稜輔の彼女?」
「そうだよ」
「へぇ、稜輔もすみにおけないな」
「……そんな事、どこで覚えたの」
「お父さんが言ってた」
「そう……」
おそらく春希ちゃんとのことをからかわれた時にでも覚えたのだろう。まったくもう、彼の父親は口は悪いし変なことばっかり言う人だ。
「千秋さんも一緒に住んでいいかな?」
「いいよ。稜輔の好きな人でしょ?好きな人とは一緒にいたいもんね。俺も春希と一緒にいたいもん」
千秋は「ませた子ね」と言って笑った。素直で純真だが、その春希ちゃんは病院で意識不明ということを思うと切ない気持ちになった。
「さぁ、忙しくなるわね。引っ越しもしないといけないし、まず挨拶しに行かないと。見知らぬ女が息子と孫の家に住み着いてたらびっくりされちゃうわ」
千秋は立ち上がって腰に手を当て「よし!」と気合を入れた。
「お父さんとお母さんの物は捨てて、家具も新しくしていいよ」
竜は家の中をぐるっと見渡して僕と千秋に言った。
「そんなことしていいの?」
「うん。ガラッと変わった方がいい」
この子は現実逃避がしたいのだ。すぐに普通の生活に戻るには、早くに諦めて忘れてしまった方がいいと思っているのだろう。
千秋は再び竜の前に屈み、肩を撫でた。
「我慢してたのね。よく頑張ったね」
千秋が優しく褒めると、竜は顔をクシャと歪ませて大粒の涙を流した。やっと子供らしい表情を見せてくれてホッとした。僕も竜の側に屈み、彼の小さい頭を撫でた。竜はひとしきり泣いた後、泣き疲れてぐっすり眠りについた。
「あなたの側が一番安心するみたいね」
千秋が涎を垂らして寝ている竜を見て言った。
これが、僕らの暮らしの始まり。
