【第3月曜日】
 珍しく自宅から出勤すると、課の直属の上司から呼び出しがあった。大抵の通知、通達はメールで行われるのに、わざわざ上司が麻衣子の席まで来て、「ちょっと良いかな」と言ったので、周囲がざわついた。麻衣子自身一瞬、私何かしたっけ?と考えを巡らせたが、問題があるとしたら私生活で自宅に居ないことぐらいだ。それだとて仕事には何の支障も無いはず。
 小さなミーティングルームのテーブルに向かい合って座ると、
「転勤て考えたことある?」
 と上司が言った。なんだそんなことかとちょっと安堵した。
「あ、いいえ、考えたことは無いですが、転勤することに抵抗は無いです」
 と麻衣子が答えると、
「そうだろうね。今まで出張するにしても全く躊躇無くどこにでも行ってくれてたもんね」
 北海道から沖縄まで、今日出発してと指令メールが飛んで来ることが何度もあった。そんな時往復の航空券から宿泊先まで総務よりもフットワーク軽快に手配する麻衣子だった。他の者は無理ですと即答するようなことも、麻衣子はまずOKの返答をする。悩むのはその後で良いと思っているからだ。
 今回も麻衣子ならまずOKと返答するだろうと上司は信じていた。そして、
「海外なんだけど」
 と付け加えた。それに対しても麻衣子は問題無いですと答えたのだ。流石に即答は無いだろうと予想していた上司もたまげた顔をして笑った。
「ほんとに? 出発まで間が無いけどほんとに大丈夫?」
 と一先ず猶予を与えるつもりで言ってみた。
「はい、問題無いです。ところでどこですか?」
「ああ、そうだった、転勤先はね、オーストラリア、ケアンズなんだ」
「良かった、英語が通じますね」
 と麻衣子は笑った。
「1年間行ける?」
 流石に1年は長いだろう、とこれにも即答を期待してはいなかったが、
「1年で良いんですか?」
 と麻衣子。麻衣子に白羽の矢を立てて良かった、と上司は思った。
 新しい部門を開設するにあたり取引先の最初の開拓地をケアンズにしようと企画案が上がり、調査には海外拠点が必要だということになった。そこで企画室は、麻衣子の発想力に着目したのだ。広報は直接取引先の開拓にはタッチしないが、常々斬新な意見を述べる麻衣子の話は社内に広く知れ渡っている。問題は1年間行ってくれるかどうかだったが、杞憂に終わった。麻衣子はそもそも発想が桁違いだ。
「調査と報告会議の開始は来年の4月。季節毎の商品の開拓をするが、まず夏向けの物を食から日常生活、新しめの観光名所等も含めてみつくろって欲しい」
「日本とは季節が逆だから、冬向きってことですね」
「あ、そうだそうだ」
 ほら来た、早速麻衣子の脳内はケアンズ志向になっている。
「年明けに出発ってことになりますか?」
 察しが良いな、その通り。
「今住んでいる部屋はそのままにしてってもらって構わない。家賃や光熱費は会社が払う」
「それは助かります。年間150万くらいになりますよ?」
「数回往復することを考えれば大した額ではない。向こうではどうする? ホテルにするか、それとも家を1軒借りる?」
「家を借りてしまうと行動拠点が限られてしまうので、ホテルにしても良いですか。取材先によってホテルを変えれば移動が簡単です」
 そうそう、この発想。やはり麻衣子にして正解だった。
「仕事の引継ぎは不要なようにしておくから」
「助かります」
 この会社は既存の概念に縛られないから好きだ、と麻衣子は思った。だからこそ麻衣子も遠慮無く何でも意見を言えるのだ。
 ケアンズ、beautiful mudの海岸線、と思い出して麻衣子は吹き出しそうになった。

 席に戻って隣席の正人に、
「ケアンズに転勤だって」
 と小声で伝えた。
「行くの?」
 と小声でも驚きの響きが隠せない顔で正人は応えた。
「行かない理由が無い」
「そりゃそうだけど。いつから?」
「年明け」
「今夜知子さんの店に行こう」
「わかった」
 と言うことは今週は正人の部屋だな、と麻衣子は思った。