父親はずり落ちた眼鏡をしっかりかけ直して、冷静に提案してくる。

「まあ、婚約の話はただの口約束だから。すまない、少しふざけすぎた。どうするかは千帆が決めなさい。父さんは千帆が楽しく生きれるならなんだっていいから」
「う、うん……」
「母さん、来週病院に千帆と一緒に行ってやってくれないか。もらっておくべき薬があるかもしれない」

 な、なんだ。半分はジョークだったのか。
 家族全員で悪ノリをしていただけならよかったけれど、半分本気で浮かれていたように見えたのは気のせいかな……?

 お母さんも振り乱した髪を整えて、お父さんの言葉に真剣に相槌を打っている。弟だけはあからさまにガッカリした顔で「セレブの仲間入りだと思ったのに」と悪態をついている。

 まさか、紫音が影でそんなことを言っていただなんて……。

 不思議に思い、思わず本音が口から溢れ出てしまう。

「なんで紫音は、私の番なんかになろうとしてくれるのかな……?」

 そう言うと、家族全員、呆れた目で私のことをじーっと見つめてきた。

 母親は「どこまで鈍感なの」と、呆れを通り越して不安そうな顔をしている。

 私は再び頭の上に疑問符をたくさん並べながら、家族の反応に戸惑っていた。

「鈍感ゴリラ」

 拓馬がぼそっと隣でそうつぶやいたので、ひとまずグーでパンチしておいた。悪口を言われたことだけはわかる。

 ひとまず家族へのカミングアウトはこれにて無事終了……したのか?




 次の朝。紫音はやっぱり朝起こしにきてくれなかった。

 私はまた寝癖が爆発したまま階段を駆け下り、高速で支度をして、走って駅へと向かう。

 口うるさく紫音が起こしにきてくれる”日常”がなくなってしまったことに、なぜかちくりと胸が痛む。

 まあ、学校に行けばすぐに会えるんだけど……。どこにいるかも嫌と言うほどすぐわかるし……。

「紫音様~! 今日もちゃんと息してる、すごい、天才、ありがたい……」
「美し過ぎて無理……。どの角度から見ても国宝級……」
「あの女ちょっと近くない? ロケットランチャーでふっ飛ばしたいわ」

 あ、今紫音に近づいたら私、ロケットランチャーで吹っ飛ばされるんだ……。怖……。

 紫音が校門付近にいることは秒でわかったけれど、どう考えても今彼に近寄ることは得策ではない。