「ヴァルト様っ!」

 誰もいない廊下へ差し掛かった頃、私は極力抑えた声で呼び掛けました。
 長い銀髪を鬱陶しげに掻き上げて振り返ったヴァルト様は、眉間を険しく寄せたまま。
 ですが怒りたいのは私の方です。アランデル様の手を振り払い、途中でお茶会を辞退なさるなんて。
 そう思い口を開こうとした私でしたが、ヴァルト様のお顔を見ては言葉が霧散しました。こちらを見上げる厳しい眼差しには、苛立ちと、私に対する不満が見て取れたのです。

「ヴァルト様……? ……あの、何かあったのですか?」

 そうでした。ヴァルト様はただ筋肉が凄まじいだけであって、決して短気な御方ではありません。
 自由奔放な性格ではあれど、渋々と私の代わりにお茶会に出席してくださったのです。演技を全うするつもりはあったのでしょう。
 ということはつまり、先程ヴァルト様が急に席を立たねばならないような事情があった、と考えるのが妥当です。

「……ローレント嬢」
「は、はい」
「お前、本気であの男と婚約するつもりか」

 私は目をぱちくりとさせながら、頷きました。

「え……と、はい。公爵家の方ですし、ローレント家の安泰を考えるのならこれ以上ない相手ですし……親しくしていただいてますし」

 駄目な理由があるでしょうか。
 アランデル様のエゼルバート公爵家は、王家とも近しいお家柄です。私が嫁入りすることで、伯爵領の統治や運営が更に善くなるのは間違いありません。
 それに──。

「だってヴァルト様、私には何の取り柄もございません。勉学は苦手ですし、お金になるような特技もないのです。この身……あ、その身一つでしか、お父様とお母様を助けて差し上げられません」

 男に生まれれば後継ぎとして働けたのでしょうが、生憎と私は何の才も持たぬ娘です。恵まれたものと言えば、容姿だけ。その容姿でさえ、化粧やドレスで何とでもなるのですから。
 婚姻によって家の結びつきを強める。
 それだけしか私に出来ることはありません。

「だから早くその体に戻らなければ……。ヴァルト様の中にいても、私は何も出来ないのです。私の武器は、己の顔だけ──」

「リシェル=ローレント、口を閉じろ」

 低く冷たい声に、びくりと体が震えました。
 そろそろと視線を持ち上げれば、案の定、怒りに染まったお顔でヴァルト様が立っています。
 自分に睨み付けられることなど初めてで、ひどく心が竦みました。

「……入れ替わったのは丁度良かった。今からあの男に会ってこい」
「え……?」
「さっさと行け。ここで腕立て伏せをされたくなかったらな」
「な、何て卑劣な脅しを……!!」

 もう、何なのでしょう。この体でアランデル様にお会いしても、畏まった会話しか出来ませんのに。
 ですが腕立て伏せを開始されるわけにはいきません。廊下の角を曲がる際、ちらりと後ろを振り返ると、ヴァルト様は──。
 腕立てなどせずに、少し、複雑そうなお顔で私を見ていました。


 出来るだけ姿勢を伸ばし、胸を張り、堂々と。セイラム様から言われた通りに廊下を歩きながら、私は来賓用のお部屋を目指しました。
 アランデル様はこちらにお通しされているはずですが、さてどうしましょう。
 殿方のお部屋を尋ねるなんて未婚の女性がすることではありませんけれど……今は私、何処からどう見ても男性ですし。

 ええい、ここでモジモジとしていたら、それこそヴァルト様が怪しい噂の的にされてしまいますわ。伯爵令嬢と仲良しなアランデル様に、同性でありながら横恋慕してしまい気を逸らすべく筋肉を育てることに励む王子みたいな──ちょっと情報量が多いですわ、考えないようにしましょう。
 どうでもよいことをうだうだと考えていたとき、不意に扉の向こうから誰かの話し声が聞こえてまいりました。

 アランデル様でしょうか?
 いえ、そもそも声の数が二つほど多いような気がします。もしかしたら王宮で居合わせたご友人かもしれませんね。それなら私もヴァルト様を装って、ささっと声を掛けてしまいましょう。
 と、私がそっと扉に手を掛けたときでした。

「──ははは、あのリシェルに引っ叩かれたのか? 毒キノコってマジだったんだな。あんなにお前に従順だったのに」

 またキノコの話してる……。
 思わずげんなりとしてしまいましたが、次に聞こえた声には息が止まりかけました。

「……あれが素面(しらふ)だったらやってられないよ。僕は頭が悪くて扱いやすい女が好きなんだ」

 それは紛れもなく、アランデル様の声だったのです。