リシェル=ローレントは怪しい商人が持ってきた怪しいキノコを食べ錯乱状態に陥ったので、急遽腕の良い医師を探すべく王宮へその身柄を移された。
 令嬢が食したキノコはベルデナーレ王国南方の樹海に生えるキガフレールダケで、その毒には致死性もあると言われ早期の治療が──。

「完全に私の頭がおかしくなりましたという報告ではありませんか!? キガフレールダケとは何です!? ちょっとそれっぽくしてますけど馬鹿にしてますわね!?」

 巷に流れている噂を書面で確認した私は、執務机を叩き割りそうになりました。この化物じみた腕力にもう驚くこともなくなりましたが、さすがに王宮の予算をこれ以上圧迫するわけには行きません。
 両手で頭を抱え、ぐったりと突っ伏しては正面に立つセイラム様を見上げました。彼も少しばかり疲労が溜まっているようです。原因は言わずもがな、私とヴァルト様の体が入れ替わったおかげで、滞り山積みになっているご公務でしょう。

 ──私も今はヴァルト様として過ごしているのですし、お手伝いしますと申し上げてみたのですが……。

『え……』

 と露骨に嫌そうなお顔をされて以降、もう何も手伝ってやるかと思いました。
 私が温室育ちの令嬢だから、何の役にも立たないと仰りたいのでしょう。正論ゆえに何も言い返せないのがまた悔しいです。
 それよりも先程から執務室の隅で腕立て伏せをしているヴァルト様を早く誰か止めてください。いつの間にか私の上腕がささやかに盛り上がりを見せ始めているのです。お願いですから止め──。

「というかヴァルト様が王宮にいらっしゃるのなら、ヴァルト様が公務をなさったらよろしいではありませんか。ここなら人目も付きませんし……」

 はたと気付いてみれば、ヴァルト様が腕を伸ばした状態でこちらを振り向かれました。汗の滴る私の顔は無様かと思いきや、意外と凛々しくて自分でドキドキしてしまいます。

「俺はこの脆弱な体を鍛えるのに忙しい」
「暇ではありませんか。めちゃくちゃ暇ではありませんか。早く公務をなさってください」

 ときめいた私が馬鹿でした。さっさとこの筋肉王子を働かせなくては。
 なおも腕立てを続行しようとした乙女の体を抱え上げ、執務机に座らせると、ヴァルト様は何とも不服そうなお顔で鼻を鳴らしました。

「伯爵夫妻を宥めるのに苦労したんだ。気晴らしに体を動かすぐらい構わんだろう」
「……ヴァルト様、あれで私の両親を宥められたと思っていらっしゃるのですか」

 適当すぎる理由によって娘が王宮に連行されることになり、私の両親はひどく困惑しておりました。様子がおかしいことについては承知済みでしょうが、王子とその側近が直々に娘を迎えに来たのですから驚くのも無理はありません。

『娘が毒キノコを……!? ヴァルト殿下、まさか娘を助けていただけるのですか!?』
『え──あ、あぁ。うむ』

 毒キノコは信じたのですね、と思いつつ私が下手くそな相槌を打つと、両親はヴァルト様をひしと抱き締めました。

『リシェル、殿下の御厚意に感謝するのだよ。早くお淑やかなリシェルに戻っておくれ』
『アランデル様にもお便りを出しておきますからね』
『……分かりました父上殿、母上様。今より暫しの別れ、ご健勝をお祈り申し上げる』

 どれだけ良心的に捉えても令嬢の喋り方には聞こえません。私の喉の何処からそんな低い声を出しているのですか。
 あと敬称がバラバラですけれど緊張していらっしゃるのですかヴァルト様。あぁもう眉間にまた皺が!

 娘の渋すぎる返事に両親が微妙な顔になってしまったところで、セイラム様がさっさと私たちを馬車に押し込みましたので、その場では事なきを得ました。多分。

 それからと言うものの、セイラム様は信頼できる者に呪術師を連れてくるよう手配し、私たちに掛けられた術の全容を明らかにするために日々動き回ってくださっています。
 加えて同時進行で公務も捌いていらっしゃるので、その苦労は並々ならぬものでしょう。

「とにかくヴァルト様、私たちも何か手がかりを探さなければ!」

 セイラム様が過労死する前に、そして私の体が筋肉の鎧を纏う前に。意気込んで身を乗り出すと、ヴァルト様は長い銀髪を鬱陶しげに払いつつも頷いてくださいました。

「ならばローレント嬢、お前に私怨を抱く者を挙げろ」
「えっ。私怨……?」

 私を恨んでいる方に心当たりはないか、ということでしょうか?
 私は暫し考え込み、顎に手を当てて唸り、背を丸め、明後日の方向を見遣り、その場で一回転したところで更に首を捻りました。

「申し訳ないですが、ヴァルト様。私、両親にも周りの者にも愛された経験しかございませんわ……」
「セイラム、これは確実にいるぞ。伯爵の交友関係を洗い出せ」
「御意に」
「何故!?」

 よくやったと言わんばかりに肩を叩いてくるヴァルト様に、私は納得が行かず抗議しましたが、案の定取り合ってもらえず。
 ヴァルト様は豪快に椅子へ凭れると、行儀悪くも細い両脚を机の上に乗せて語りました。

「良いか、ローレント嬢。何故この事態に俺とお前が巻き込まれているのか、その理由が分かれば自ずと解決の糸口が見つかる」
「え、ええ……それは、そうでしょうけど……」
「最も怪しいのは日頃から俺を蹴落とそうとしている連中だが──お前に危害を加えようとする輩がゼロとも限らん。可能性を潰す意味でも我々に協力しろ、良いな」

 さすがは次期国王となる御方、私の体でも迫力が凄まじいです。今は私の方が遥かに屈強な姿をしているというのに、こくこくと頷くしかありませんでした。

「……。話の腰を折るようで申し訳ありませんが、ヴァルト様」
「何だ、セイラム」
「そろそろエゼルバートの公子殿が面会にいらっしゃる時間ですよ」
「は? ──あ」

 そこでヴァルト様は自身の姿を思い出したのか、盛大な溜息と共にお顔を上向けたのでした。