「──ミヤビ殿?」

 昨日の会話を思い出しながら上の空で剣の手入れをしていると、同僚の騎士が不思議そうに声を掛けてきた。
 我に返ったミヤビが軽く会釈をすれば、騎士はどこか気遣うような笑みを浮かべる。

「マクシム殿下と何かあったのですか」
「ああ……いえ。すみません、今日の稽古、あまり身が入っていませんでしたね」
「いえいえ、いつもより太刀筋は冴え渡っておりましたよ。その、殺気立っていて」

 つまり人を斬り殺しそうな顔で稽古に臨んでいたのかと気付き、ミヤビは改めて同僚に謝っておいた。

「あ、忘れるところでした。先程セイラム様がいらして、稽古が終わったら東回廊に来て欲しいと仰っていましたよ」

 少しの間ミヤビは考え込み、「分かりました」と返事をする。
 恐らく二週間ほど前に、セイラムが突然ミヤビを訪ねてきた件だろう。表向きは対立派閥であるにも関わらず彼が接触して来た理由は、言わずもがなミヤビの出身が起因している。


『──鯉を仕入れることが出来そうな商人とか、いませんかね』


 他にもやることが山積みなのにどうして鯉の仕入れ方など聞かねばならんのだと言わんばかりの形相だった。
 恐らくヴァルト王子から戯れに聞かれたのだろう。でなければ立太子の準備で忙しい時期に、わざわざセイラムが愁国の鯉について調べるはずがない。

 少々扱いづらい主人に仕えている者同士、哀れに思ったミヤビは実家が贔屓にしている商人に連絡してみたのだが──何故か知らぬ間に話が大きくなり、鯉は愁王からの贈り物になってしまっていた。
 結果的にベルデナーレ王国と愁国の親交が深まったので良しとするが、次期国王の威光とは想像以上のようだ。



「ミヤビ殿、訓練でお疲れのところ申し訳ありませんね」
「いえ、お構いなく。ご用件は何でしょう」

 東回廊へ向かうと、既にセイラムがそこで待っていた。相変わらず疲労の拭えない顔をしているが、第二王子派が片付いたことでいくらか心配事は減ったのではないだろうか。
 と思った矢先、彼の手元には分厚い資料の束が抱えられていたので、仕事の量はあまり変わっていないようだ。

「貴女は謹慎処分の対象から外れていると聞いたので、確認しておこうと思いまして」
「はい?」
「マクシム様が公爵位への降下を申し出たとは真ですか」

 ミヤビは思わず忌々しげに顔を歪めてしまった。感情が振り切れると一気に表情が崩れてしまうのは昔からだが、こればかりはどうしようもない。

「……はい。昨日、陛下に申し上げられたそうです。第二王子派の一掃に併せて、ご自身は東部のラフィーネ領に向かうと」

 ──マクシムは王子という身分から降り、次期国王の一臣下になることを選んだ。

 ゲイル公爵を始めとする第二王子派を宣言通り抹殺した今、もはや彼には王宮に留まる理由がないのだろう。加え、マクシムこそが正統なる後継者だと主張する者が、この先二度と出てこないとは言い切れない。
 兄との無用な争いを避けるためにも、この事件の責任を取る形で早々に王宮から離れるつもりなのだ。
 そして──この形こそ、マクシムが当初から計画していた理想の終幕なのだろう。

「……あの方が少々、いえかなり、だいぶ拗れた性格だったことは未だに信じがたいですが、これも計算の内だったようですね」

 セイラムが溜息まじりに肩を竦める。宰相の息子でもある用心深い彼の目にも、マクシムの本性は見抜けていなかったらしい。つくづく不気味な男を主人に持ったものだ。

「ヴァルト殿下はご不快に思われていませんでしたか」
「あー……あのゴリラは無駄に順応が早いのでもう受け入れているようですが……」

 さすが次期国王、大物である。しかしこの側近は本当に口が悪い。

「それでミヤビ殿はどうされるのです? 貴女は……マクシム様の腹心と言っても差し支えないでしょう。共にラフィーネへ?」

 腹心。果たしてそのような大層なものだろうかと、ミヤビは眉間に皺を寄せた。
 女の身では騎士になれなかった愁国を出て、ミヤビは遥々このベルデナーレ王国にやって来た。勿論こちらでも女性騎士の数は少なく、他の騎士から侮られる機会も少なくなかった。
 例えミヤビが大男すら圧倒する剣技と武術を体得していても、彼女に出世の道はないだろうと誰もが思い込んでいたに違いない。

『そこの黒豹のごとき娘!! 僕に仕える気はないか!』

 そんな中で、ミヤビを白鷹の騎士団に勧誘したのがマクシムだった、というだけの話だ。
 初めは愁国の変わった女が騎士になったと聞いて、珍しがっているだけだと思っていたが──今思えばマクシムは、周囲から浮いていたミヤビなら駒として扱いやすいと踏んだのだろう。
 加えてミヤビは王国貴族とは何の関係もなく、彼に王位を継げだの兄王子を蹴落とせだの出過ぎたことも言わない。おまけにマクシムの本性を言いふらすような心配もない。

 腹心というよりは、ちょうどいい存在だ。

「……いえ、特に殿下からは何も言われておりませんので」

 ずきりと痛む腹を摩り、ミヤビは顔を顰めたのだった。