「どうしてっ、どうしてアランデル様は領地に帰ってしまわれたのよ!? 私とお会いする約束があったのに!」
「知るか。あいつが自分で謹慎してるだけだぞ」
「あんたの言うことなんか信じないんだから! 舞踏会のときもアランデル様に色目使ってたでしょ!? 放って行かれた私の気持ちがあんたに分かるの!?」
「俺──私がアレに色目を使っただと? 気色悪いことを言うな。お前の見間違いだ」
「そんなわけないじゃない! あんたは誰にでも媚びる女だもの!」

 うおお地獄絵図ですわ!!
 廊下には年若い乙女──ヘリオッド子爵令嬢のイサベラが、人目も憚らずにヴァルト様をがくがくと揺さぶる姿がありました。

 どうやらイサベラは私とヴァルト様が入れ替わっていることを知らないようで、嫉妬に燃える瞳をギラギラと煌めかせています。
 対するヴァルト様には勿論、全く心当たりがありません。怪訝なお顔でイサベラを睨み下ろし、面倒臭そうな溜息をつきました。

「……媚びてなどいない」
「媚びてるのよ! 今だって変なキノコのせいにしてるけど、どうせヴァルト殿下に取り入ろうとしてるだけでしょ? 男なら何でも良いのね、あんた」

 オイオイあの小娘、言わせておけばですわ! 今からこの剛腕の餌食にして差し上げてもよろしいのよ!

「ちょ、リシェル様どうか抑えてください。廊下を血の海にするおつもりですか」
「ええい放してくださいセイラム様っ、今のは私にもヴァルト様にも失礼な発言ですわよっ」

 私たちが廊下の角でひそひそと言い争っているうちに、何も反論しないヴァルト様へイサベラが更なる怒りを露わにしました。

「私はね、ずっとアランデル様のお傍に行きたくて、ずっとずっと機会を待っていたのよ。でもあんたが図々しく隣に居座ってたせいで、アランデル様は一度だって私のことを見てくれなかった……!」
「……」
「ようやくあんたが金目当てで殿下に鞍替えしたから、もう悔しい思いをしなくて良いと思ったのにっ……!」

 そこで何と、イサベラが右手を振り上げたのです。
 二人を離れたところから見守るしかなかったメイドや兵士が、にわかに騒然となりました。私とセイラム様も話を中断し、ハッと息を呑んだのですが──。
 イサベラのビンタは勢いよく空振り、そればかりかヴァルト様に手首を掴まれては、床に捻じ伏せられてしまいました。


「悪いが何一つ、こちらの責任が見当たらん。それ以上、私への──リシェル=ローレントへの侮辱はやめてもらおうか」


 あッ好き……って駄目ですわリシェル、いくら何でもちょろすぎますわ。

 ヴァルト様が擁護してくださったことの嬉しさに負け、私がその場に蹲っている間にも、イサベラの喚きは続いておりました。

「放しなさいよ! 大体あんたなんかが社交界で目立ってんのも気に食わないわ、愛嬌ぐらいしか取り柄ないくせにっ」
「腹の探り合いが必須の世界を、愛嬌だけで生きていけるとは思わんな。それと。少なくとも私は個人の感情ではなく、家のために行動していたに過ぎん」
「な……!」

 かっとイサベラの顔が赤くなりました。

 個人の感情──つまり彼女のアランデル様へ対する恋心ですわ。

 ヴァルト様の仰る通り、イサベラはまだ十五歳で社交界に入って間もない。貴族令嬢の義務でもある「家のために婚約を結ぶ」という意識が薄く、若く見目麗しい男に心から惹かれてしまったのでしょう。
 私も本気でアランデル様に恋をしていたら、決定版リシェルの夜会ノートなんて作っていなかったと思います。愛しい人のために全身全霊で尽くすこと以外、何も考えられなかったかもしれません。
 ですが社交界で夢うつつに陥れば足を掬われると、心の奥底では理解していました。だから私はアランデル様とお近づきになった後も、せっせと人脈を広げて情報を集めていたのです。
 ──ヴァルト様は、そんな私の使命感を汲み取ってくださったのでしょうか。

「他人のせいにする暇があるなら、少しは自分で努力をしろ。……あの男はお薦めできないがな」

 いつの間にかぐすぐすと泣いているイサベラに溜息をつき、ヴァルト様はそっと彼女を解放しました。
 そして私たちの存在に気付いては、どこかばつが悪そうなお顔でそっぽを向いてしまいます。

「……やだ、見ましてセイラム様。ヴァルト様がちょっと照れていますわ、お可愛らしい」
「貴女も結構な恋愛脳な気がするんですがね……」
「え? 何か仰いまして?」
「いえ」



 結局イサベラは、私とヴァルト様が入れ替わっていることについて、やはり何も知らないようでした。
 嫉妬に狂う娘を哀れに思ったヘリオッド子爵が、独断で私を後継者争いの材料に数えたと考えるのが妥当なのでしょう。
 王子の魂が入ったリシェルを殺害してしまえば、一石二鳥ですものね。恐ろしいことを考える男ですわ。

「まぁ、ヘリオッド子爵は今日の騒ぎで暫く大人しくなるでしょう。馬鹿な娘で助かりましたよ」
「辛辣ですわねセイラム様」

 セイラム様が子爵に関する資料をテーブルの隅に押し退けると、私はそこに紛れ込んでいた一通の手紙に目が留まりました。

「あら? セイラム様、このお手紙……──まぁ!」

 珍しい紅色の封筒に記された送り主の名を見て、私は歓喜の声をあげたのでした。

「カルミネ様からですわ!」