「──ぬぅんッ」

 ヴァルト様と恋ならぬ鯉について小一時間話し込んだ日の夜、私は暗い寝所に立ち尽くしておりました。ちなみに今の野太い声は私でございます。
 大きなベッドの脇には黒い影が蹲り、死にかけの昆虫のように床でもがいていました。
 この人──どなたでしょうか。

 遡ることほんの数分前。
 いつも通り私は就寝前のフェイスケアとして、ペースト状にしたリンゴを顔に塗っておりました。ヴァルト様のお顔、ちょっと乾燥気味だから気になってしまって──あ、勿論セイラム様には内緒ですわ。
 湯浴みの後で火照った頬に、ひんやりとした感触を乗せていき、私が一息ついた頃。

 誰もいないはずの寝所。そのベッド下の隙間から、()()と目が合ったのです。

 初めは私が寝ぼけているのかと思いましたが、どう見てもそれは人間の双眸でした。
 暫しの睨み合い。否、侵入者はきっとローブ姿の巨漢が果物パックをしている姿に衝撃を受け動けなかったのでしょう。その証拠に、手に持ったナイフが情けないほどに震えています。
 やがて侵入者は意を決した様子でベッド下から這い出し、私に襲い掛かってきました。

 相手はナイフ所持、私は丸腰。これは不味いですわと助けを呼ぶより先に、ヴァルト様の肉体に刻まれた戦闘本能が瞬時に覚醒し、鍛え抜かれた筋肉と全神経に脳が号令を下しました。

 そう、その時の私には世界がゆっくりと動いているように見えたのです!!

 見える、見えますわ……!! 侵入者が腕を振り上げるタイミング、ナイフの軌道すら手に取るように分かる!!
 私は本能に従い身を屈め、ナイフを回避するついでに、胸まで持ち上げた両手を軽く握り込みました。
 刹那、風を切り唸るアッパーが侵入者の顎を捉えます。

「ぬぅんッ!!」

 脇を締め、肘の角度を維持したまま拳を振り上げれば、侵入者が勢いよく錐揉み回転をしながら吹っ飛びました。
 決まりましたわー!!


 ──という次第でございます。
 今ようやく冷静になってきましたわ。ヴァルト様のお体で何をしているのでしょうか私は。危うく人が死ぬところでした。
 取り敢えずちょうど時間ですからリンゴのペーストを落として、今しがた気絶した侵入者を護衛の方に引き渡しに行きましょうか。

「はぁ、嫌ですわ。もしかして……私たちが本当に戻ったのか、確かめるために刺客を……?」

 舞踏会で私たちの姿を見た第二王子派が焦り、強硬手段に出た可能性は否めませんわ。まだ一日と経たずに刺客を寄越したのは、こちらの油断を突くためでしょう。
 運よくヴァルト様の生存本能が働いたおかげで撃退できましたけれど、あと少しでも気付くのが遅れていたら、どうなっていたことか……。

「……ん? ちょっと待って、私のところにまんまと刺客が忍び込んでいるということは──」

 ヴァルト様の元にも刺客が送り込まれているのではありませんの!?
 それこそ不味いですわ、今のヴァルト様は私のか弱くて可憐で可愛い体に入っていますのよ。相手が男性であるだけで、抵抗できる可能性はぐっと下がってしまいます!
 べりっとパックを顔から剥がした私は、侵入者の男を引き摺って廊下へ飛び出しました。

 すると何と言うことでしょう! 廊下には護衛の騎士の皆さまが昏倒しているではありませんか!

「きゃあ! 間違えた、だ、大丈夫か」

 思い切り裏返った悲鳴を上げてから、私は彼らの肩を軽く揺すってみました。しかし眠り薬でも嗅がされたのか、うんうんと魘されるだけで返事はありません。
 仕方なく彼らを廊下の隅に寝かせてから、私は再びヴァルト様のいらっしゃるお部屋を目指しました。


「──ヴァルト様、ご無事です、の……!?」

 施錠されていた扉をタックルでぶち破った私は、そこで出迎えた小柄な人影をきょとんと見下ろします。

「ローレント嬢。お前も無事だったか」

 ふんわりとしたネグリジェに身を包んだヴァルト様は、その繊細な刺繍が施された裾をたくし上げ、ばきばきに武装した見知らぬ殿方を足蹴にしている最中でございました。
 しかもその右手には何処に隠していたのか、打てば大変良い音が鳴りそうな鞭まで握られています。これは未成年には見せられない光景ですわ。

「きゃー!? ちょっと、もう何をしていらっしゃるの!」

 私は慌ただしくヴァルト様の両脇に手を差し込み、刺客とおぼしき男から引き剥がそうとしたのですが。

「待て、先にこいつを縄で縛れ」
「嫌ですわよぉ! これ以上私の体で女王様ごっこはしないでくださいましぃ!!」
「この体じゃ道具に頼るしかないだろう──おい動くな」
「あーっ!? 駄目ですわヴァルト様! その方、お尻が四つに割れてしまいます!! ひやぁ……!」

 それから暫く鞭の破裂音が響き続け、ようやくセイラム様を始めとした兵士が到着した頃、刺客の男には抵抗する気力など一つも残っておりませんでした。