思えば昔──私がデビュタントとして社交界に足を踏み入れたときも、アランデル様は今と同じお顔をしておられました。
あの頃は貴婦人としての矜持なんてものはなく、ただただ華やかな世界に圧倒されるばかりで。私は正真正銘、何も知らない無垢な少女でした。
『リシェル? 可愛い名前ですね。貴女にぴったりだ』
『花は好きかな。偶然通りかかった花屋で、貴女に似たものを見つけて』
だからアランデル様のお言葉は驚くほど素直に、私の心を擽ったのでしょう。それが──こう言えば喜ぶだろう、こうすれば簡単に靡くだろうという打算から来る言葉だと見抜けませんでした。
段々と社交界での立ち振る舞いを覚え始めた頃には、時すでに遅し。私はすっかりアランデル様の優しい態度を信じ切っていたのです。
「リシェル?」
──三年前の私に会えるのなら、「この男だけはやめておきなさい」と頬をビンタしているところですわよ! 本性を知らぬまま嫁いだが最期、どんな扱いを受けるか分かりませんわ!
私はふぅと息を吐き、椅子から立ち上がる素振りは見せずに微笑みました。
「申し訳ありません、アランデル様。私、少し気分が優れなくて……ヴァルト様がお戻りになったら、今宵はもう引き取らせていただこうかと」
「……」
「ですからどうぞ、ダンスはあちらの方々となさって」
ははぁん……そのお顔! その苛立ちを無理やり抑えたような笑顔! ヴァルト様にお茶会の代理を頼んだ際も、似たようなお顔をされていましたわね。
あなたが言うところの「頭の悪い女」から粗雑な扱いを受けるのが屈辱なのでしょうね。私、確かに勉学はからっきしですけど、ちゃんと脳みそが詰まった人間なんですから!
私が凄みを効かせた笑みで黙っていると、やがてアランデル様がゆっくりとその場に跪きました。これまた絵になるのが妙にムカつきますわ。
「……リシェル、殿下から何か聞いたのかい」
まぁ、さすがアランデル様。頭の回転がお早い。
「あら、何をですの? ヴァルト様とも仲良しでしたのね、ぜひ教えてくださいましアランデル様」
「あぁ、ううん何でもない」
青褪めていらっしゃいますわ。ヴァルト様のことがトラウマになっているのかしら。突然お部屋に巨漢が乱入してはひと暴れして立ち去った日なんて、誰でも数日は夢に見るでしょうけど。
「リシェル、少し向こうで話さないかい。僕はどうやら貴女の機嫌を損ねたようだ。挽回の機会をくれないかな」
「え? ──ちょっ、え、あの」
すると突然アランデル様は強引に腕を掴み寄せ、そのまま半ば引き摺るようにして私をホールの外へ連れ出そうとしました。
何ですのっ? 私、ヴァルト様をお待ちしていると申し上げたはずですわよね!?
私が慌てて抵抗しても、アランデル様の手はちっとも離れません。それどころか更に歩幅を大きくし、屋外の柱廊へと足早に向かってしまいます。
ひやりとした夜風が剥き出しの背中を撫で、私は肩を竦ませました。人気のない庭の薄闇が、一層その寒さを助長させているようです。アランデル様は一体どこへ連れて行く気なのでしょう。
これ以上ホールから離れると、応急薬の効果が──。
「きゃっ!?」
ぐいと肩を掴まれ、背中が冷たい柱に押し付けられました。痛みに眉を顰めたのも束の間、目の前にはアランデル様のお顔が。
「リシェル、僕と会えない間に殿下に心変わりしてしまうなんて」
「へ。いえ、アランデル様? な、何を」
「どうやったら君の心を取り戻せるかな? 今から試してみようか」
そう囁いたアランデル様は、私の顎を引き戻しては──唇を近づけたのです。
私は引き攣った悲鳴を漏らし、咄嗟にアランデル様の顔を両手で勢いよく押し退けました。
「キャーッ!? やめてくださいまし!! 乙女のファーストキスは明るくて暖かい花畑か月光に照らされたロマンチックなテラスだと相場が決まっていますのよ!! 間違ってもこんな物陰で奪ってよいものではありませんわ破廉恥モヤシ!!」
「なん……だって!?」
しまったぁ!! 私ったら焦るあまり暴言まで吐いてしまいましたわ!!
アランデル様は頬をぐにっと抉られたまま、鮮明な怒りを露わになさいました。ですが私だって怒り心頭ですわよ! 色仕掛けで私の機嫌が治るなどと思っているのでしょうか!
怒っている女性に理由も聞かずキスをして、なし崩しに喧嘩をうやむやにしようとする殿方はロクデナシのカイショーナシだとお母様も仰っていましたもの!
「チッ、まだあの変なキノコ残ってるのか!? 僕に対して何だその口の利き方……! どうせお前、権力に目が眩んで殿下に近付いたんだろ! でなければ僕があんな穢れた男に負けるわけ」
「んな……っ、こ、こ、この野郎ですわ! ヴァルト様への暴言は聞き捨てなりませんわよ! ヴァルト様は陰で他人の悪口を言っているあなたなんかより数億倍は素敵です!! って、しかも私を尻軽女のように仰いましたわね!?」
じたばたとアランデル様を押し退けようともがいていた私は、ふと息苦しさを感じて咳き込みました。
いけません、急に怒鳴ったせいでしょうか。何だか意識が……悪寒もしますわ。まさか応急薬が切れ始めて──。
「けほっ、と、とにかく、ズズッ、私はもうアランデル様とお会いしません、グスッ、話すことなど何もありまぜ」
──これ鼻づまりですわーッ!!
やだ、鼻づまりの副作用って本当でしたのね!? ヴァルト様と離れたせいですわっ、一刻も早くホールに戻らなくては……と、私が口呼吸をしながら慌てたときでした。
「──リシェル!!」
あの頃は貴婦人としての矜持なんてものはなく、ただただ華やかな世界に圧倒されるばかりで。私は正真正銘、何も知らない無垢な少女でした。
『リシェル? 可愛い名前ですね。貴女にぴったりだ』
『花は好きかな。偶然通りかかった花屋で、貴女に似たものを見つけて』
だからアランデル様のお言葉は驚くほど素直に、私の心を擽ったのでしょう。それが──こう言えば喜ぶだろう、こうすれば簡単に靡くだろうという打算から来る言葉だと見抜けませんでした。
段々と社交界での立ち振る舞いを覚え始めた頃には、時すでに遅し。私はすっかりアランデル様の優しい態度を信じ切っていたのです。
「リシェル?」
──三年前の私に会えるのなら、「この男だけはやめておきなさい」と頬をビンタしているところですわよ! 本性を知らぬまま嫁いだが最期、どんな扱いを受けるか分かりませんわ!
私はふぅと息を吐き、椅子から立ち上がる素振りは見せずに微笑みました。
「申し訳ありません、アランデル様。私、少し気分が優れなくて……ヴァルト様がお戻りになったら、今宵はもう引き取らせていただこうかと」
「……」
「ですからどうぞ、ダンスはあちらの方々となさって」
ははぁん……そのお顔! その苛立ちを無理やり抑えたような笑顔! ヴァルト様にお茶会の代理を頼んだ際も、似たようなお顔をされていましたわね。
あなたが言うところの「頭の悪い女」から粗雑な扱いを受けるのが屈辱なのでしょうね。私、確かに勉学はからっきしですけど、ちゃんと脳みそが詰まった人間なんですから!
私が凄みを効かせた笑みで黙っていると、やがてアランデル様がゆっくりとその場に跪きました。これまた絵になるのが妙にムカつきますわ。
「……リシェル、殿下から何か聞いたのかい」
まぁ、さすがアランデル様。頭の回転がお早い。
「あら、何をですの? ヴァルト様とも仲良しでしたのね、ぜひ教えてくださいましアランデル様」
「あぁ、ううん何でもない」
青褪めていらっしゃいますわ。ヴァルト様のことがトラウマになっているのかしら。突然お部屋に巨漢が乱入してはひと暴れして立ち去った日なんて、誰でも数日は夢に見るでしょうけど。
「リシェル、少し向こうで話さないかい。僕はどうやら貴女の機嫌を損ねたようだ。挽回の機会をくれないかな」
「え? ──ちょっ、え、あの」
すると突然アランデル様は強引に腕を掴み寄せ、そのまま半ば引き摺るようにして私をホールの外へ連れ出そうとしました。
何ですのっ? 私、ヴァルト様をお待ちしていると申し上げたはずですわよね!?
私が慌てて抵抗しても、アランデル様の手はちっとも離れません。それどころか更に歩幅を大きくし、屋外の柱廊へと足早に向かってしまいます。
ひやりとした夜風が剥き出しの背中を撫で、私は肩を竦ませました。人気のない庭の薄闇が、一層その寒さを助長させているようです。アランデル様は一体どこへ連れて行く気なのでしょう。
これ以上ホールから離れると、応急薬の効果が──。
「きゃっ!?」
ぐいと肩を掴まれ、背中が冷たい柱に押し付けられました。痛みに眉を顰めたのも束の間、目の前にはアランデル様のお顔が。
「リシェル、僕と会えない間に殿下に心変わりしてしまうなんて」
「へ。いえ、アランデル様? な、何を」
「どうやったら君の心を取り戻せるかな? 今から試してみようか」
そう囁いたアランデル様は、私の顎を引き戻しては──唇を近づけたのです。
私は引き攣った悲鳴を漏らし、咄嗟にアランデル様の顔を両手で勢いよく押し退けました。
「キャーッ!? やめてくださいまし!! 乙女のファーストキスは明るくて暖かい花畑か月光に照らされたロマンチックなテラスだと相場が決まっていますのよ!! 間違ってもこんな物陰で奪ってよいものではありませんわ破廉恥モヤシ!!」
「なん……だって!?」
しまったぁ!! 私ったら焦るあまり暴言まで吐いてしまいましたわ!!
アランデル様は頬をぐにっと抉られたまま、鮮明な怒りを露わになさいました。ですが私だって怒り心頭ですわよ! 色仕掛けで私の機嫌が治るなどと思っているのでしょうか!
怒っている女性に理由も聞かずキスをして、なし崩しに喧嘩をうやむやにしようとする殿方はロクデナシのカイショーナシだとお母様も仰っていましたもの!
「チッ、まだあの変なキノコ残ってるのか!? 僕に対して何だその口の利き方……! どうせお前、権力に目が眩んで殿下に近付いたんだろ! でなければ僕があんな穢れた男に負けるわけ」
「んな……っ、こ、こ、この野郎ですわ! ヴァルト様への暴言は聞き捨てなりませんわよ! ヴァルト様は陰で他人の悪口を言っているあなたなんかより数億倍は素敵です!! って、しかも私を尻軽女のように仰いましたわね!?」
じたばたとアランデル様を押し退けようともがいていた私は、ふと息苦しさを感じて咳き込みました。
いけません、急に怒鳴ったせいでしょうか。何だか意識が……悪寒もしますわ。まさか応急薬が切れ始めて──。
「けほっ、と、とにかく、ズズッ、私はもうアランデル様とお会いしません、グスッ、話すことなど何もありまぜ」
──これ鼻づまりですわーッ!!
やだ、鼻づまりの副作用って本当でしたのね!? ヴァルト様と離れたせいですわっ、一刻も早くホールに戻らなくては……と、私が口呼吸をしながら慌てたときでした。
「──リシェル!!」