「──せいや、はっ!!」
「次、第二班!」
「おお!!」
「あと少しだ、気を抜くな!」
「うおおおお!!」

 あ、暑苦しい──。

 何でしょうこれは。上半身裸の殿方が一斉に、命綱も着けずに岩壁を登っておられます。その姿はまるでクモかトカゲか。いえ、あんなにもムキムキなクモや爬虫類はいませんけれど。

「ヴァルト殿下! 全ての班が崖登りを終えました!」
「は……そうか」

 危うく「はい」と返事をしそうになり、私は慌てて低く応じました。
 振り返ると、そこには私よりも一回り小柄な男性──クロムが立っています。歳も十代半ばで、お尋ねしたところ騎士見習いの方だそうです。まだ本格的な訓練には関わらず、こうしてヴァルト様のお手伝いをされているとか。

「ご、ご苦労だった。クロム」
「はいっ。三分ほど遅れが出ているので休憩は無し、そのまま崖上で腕立て二百回ですよね!」

 まぁ素敵な笑顔で何て鬼畜なことを言うのでしょうこの子は。
 慌ててヴァルト様から渡された指示書を確認してみると、間違いなく腕立て二百回の文字が記されていました。遅れが出た場合は休憩を抜きにすること、とも。

「う、うむ……」

 既に皆さまは崖登りの前に、王宮からここまで全力で走って来られているので、体力はかなり消耗しているはずですが……。

「クロム、少しだけ休憩を取らせることは」
「休憩ですね! ならば腕立てが終わった後、土嚢を担いで渡河を開始し、終了次第再び腕立て百回を追加した後になりますがよろしいでしょうか!」

 そんな料理の注文のように言うことではありませんわクロム。
 けれどクロムの素晴らしいところは、騎士団の訓練メニューを一つも間違わずに記憶しているところです。今もなるべく予定を崩さずに休憩を挟みましたし、恐らくその後の調整も頭の中で済ませているのでしょう。
 将来はセイラム様も苦笑いするほど、騎士団の鬼畜な頭脳になる気がいたします。

「ではヴァルト殿下、各班にお伝えしてきます!」
「頼みま……む」
「?」

 いけないいけない、気を抜いたらすぐ口調が乱れてしまいます。まぁ私、これでもお芝居はよく見ますのよ。きっと誰にも不審がられていませんわ。少なくともヴァルト様演じるリシェルよりは絶対にマシ──。

「ふふ、今日のヴァルト殿下は何だかお優しいですね!」
「え!?」
「何か良いことでもあったのですか?」
「いいや何も!? 絶好の筋肉日和だから機嫌が良いだけですわぞ!? だから今日は筋肉記念日だな!」

 我ながら意味が分かりませんわリシェル! クロムが楽しそうに笑っているから良いですけれど!

「さ、さぁクロム! 我々も崖を登りまするぞ!」
「わぁ! ヴァルト殿下の崖登りをお傍で見られるなんて光栄です!」

 私ったら勢いに任せて言ってしまいました。どうしましょう、ヴァルト様のお体とはいえ崖なんて登ったことはおろか触ったことすら──いいえ、クロムがきらきらと私に期待の目を向けているのですから、何としても成し遂げなければ!

「えぇーい!」

 ──結果から言いますと、初めての崖登りはよく分かりませんが成功いたしました。指を岩壁に突き刺しながら登れば大したことございませんのね。

 とりあえずヴァルト様のお体が人の域を超えていることは改めて理解できましたわ。
 乾いた笑いをこぼしながら強靭すぎる両手を見詰めていると、坂を駆け上って来たクロムが子ウサギのように飛び跳ねたのでした。

「ヴァルト様、お疲れ様です! とても素晴らしい雄姿でした!」
「あ、ああ……」
「いつか僕も腕力だけで崖を登れるようになりますか!?」
「そこまでならなくて良いですわ! だぞ!!」


 ──その後、蒼鷲の騎士団の皆さまは予定通り土嚢を担いで河を渡り、腕立てを百回こなしたところでお倒れになりました。これほど逞しく鍛えられた方々でも、ヴァルト様の組んだ訓練を完遂するのはとても厳しいようです。
 私だって騎士団の訓練とは剣の素振りをするイメージしかなかったものですから、まさか王宮を猛ダッシュで飛び出し、切り立った崖をよじ登り、激流の河を渡り最後には大声で夕日に向かって叫ぶとは思いもしませんでした。
 ところで仕上げと言わんばかりの雄叫びは必要なのでしょうか? 私も一応参加してくれと、クロムからお願いされたからやりますけれど。

「旨い不味いは塩加減ッ!!」

 よくお母様が仰る言葉だったのですが、どういうことでしょう、林に潜んでいた鳥や猪が騒々しく逃げていきましたわ。
 とにもかくにも、これにて訓練は終了ですわね! 初めて体を沢山動かしたせいか、心なしか気分がすっきりとしています。
 ヴァルト様の指示書を拝見したときは正気を疑ってしまいましたけど、騎士様から一人の脱落者も出なかった辺りはさすがとしか言いようがありません。
 あら、でもここからどうやって王宮まで──。

「よし、では復路を全力で駆け抜けるぞ! 遅れた者は夕飯抜きだ!」
「おお!!」

 帰り道は競争ですの!?
 我先にと走り出した皆さまを見送っていたら、不意にクロムが心配そうに顔を覗き込んできます。
 やだ、まさか私も走らなくてはならないのでしょうか。私、ヴァルト様のお体で走ると止まれなくなってしまうのですけれど──。

「どうされたのですかヴァルト殿下っ、殿下も最下位だと夕飯がなくなってしまいますよ!」
「はあん!? 舐められたものですわね!!」

 クロムを両手で抱き上げた私は、夕暮れの森を破竹の勢いで走り抜き、あっという間に騎士団の先頭に躍り出たのでした。